多い「私マンガ」(投稿)と文芸論との関連
本欄2月19日の、09年2月18日 読売新聞・佐藤憲一記者の記事について、 Lydwineさんより、下記のような投稿をいただきました。
『きわめて有名なところでは、藤子不二夫Aによる「まんが道」があり、永島慎二の「漫画家残酷物語」も伝説的なマンガと言えましょう。吾妻ひでおの「失踪日記」なども、彼自身の体験に基づくマンガです。
また、江口寿史と親交の篤いよしもとよしとものデビュー作「日刊 吉本良明」というマンガは、私小説四コマとも言われました。
最近でも、福満しげゆきや青野春秋といったマンガ家の作品などは、私小説を連想させます。
あるいは、女性で山田花子というひとがいましたが、彼女の作品も、私小説的な要素が濃くあったと思います。念のためですが、山田花子といっても吉本の芸人とは別人であり、自殺によって亡くなっています。
女性では、やまだ紫という方のマンガも、すべてではなにせよ、多くの作品が、私マンガといってもよいかもしれません』
多少はあるとは感じていましたが、ひとつの流れになっているようです。知りませんでした。
じつは会員の作品発表場にしている関連サイト「詩人回廊・伊藤昭一の庭番小屋」では、東浩紀+桜坂洋「キャラクター」の評論を連載中だが、そこで作中の
『それらふたつは、歴史的な連続性なしに、ある日突然日本人に植えつけられたものなのだ。この国は、近代に政治、経済、軍隊、文学等々をヨーロッパから輸入しただけでは飽きたらず、百年以上たっても独自の文化を構築できないで、いままたシュミラークルとしての城塞都市を輸入しようとしているのだった』
に対し、『自分は、日本文学について、その導入経過は西欧式リアリズムの輸入であったが、日本の私小説は、それなりに風土に根ざした西欧にない独自のジャンルを形成していると思う。ここでの東浩紀は、従来の文芸評論的発想のひとつを紹介しているだけであろうから、それほど深く考えるほどのものではない。ありふれた理屈だ。また、導入の過程が悪いから現在が良くないというのも、理屈に合わない。』と反論らしきものを述べているが、「私小説」が世界的なジャンルになるであろうという方向づけに、Lydwineさんの投稿は参考になります。
ちなみにこの評論は、出来れば小冊子にして、5月蒲田の「文学フリマ」で販売したいと当会の参加申し込みをしてある。前回のフリマで東氏に会ったときに「キャラクター」を評論できますよ」と伝えたら「やってください」ということだったので、東氏にも送ろうと思う。あくまで、つもりだけど。
同時に「詩人回廊」の作品をジャンル別にして「文学フリマ」で販売したいと思っている。
| 固定リンク
コメント