「叙情と闘争」辻井喬・堤清二回顧録が最終回に
読売新聞のこの連載が最終回となった。毎週興味深く読んだ。今回は冒頭に、辻井氏に「何を書きたかったのか」と質問されたとある。そこで、何かを訴えたいわけでもなく、その意味では無目的であったとする。それこそ、これが文学・文芸的書き物である所以である。
辻井氏は、社会体制への興味として、ロシアのことに多く言及している。その点では、官僚の佐藤優氏と会い通じるものがある。
ロシアの民衆は、資本主義社会を経験していない。しかし、レーニンやトロッキーは知識人として、資本主義を知っていた。そして革命を起こした。レーニンは「革命は、資本主義がよく浸透していない、新興国でその輪が広がる」という説を出した。革命はプロレタリアートでなくて、ブルジョワ知識人の指導から生まれていた。
たしかに、革命には、利己主義の塊である人間を体制によって調和コントロールできるという前提とロマンがあった。
そこで、考えてみると、辻井氏の若き日のロマンと、社会でのリアルな人間の本性との照合性を自己点検したのではないだろうか。
自分も、高度成長経済下において、財閥系のビルに出入りし、大理石の床を踏んだ。プロタリアートの血と汗がこめられたであろう床を意識しながら、市場拡大の仕事に従事していることへの違和感があり、自分のメモを書いた記憶がある。その意味で1974年の大企業ビル爆破事件は、人間の尊厳への理想をリアルに砕いて見せたものとして、悲しいものがあった。醜いものは見たくない心理か、あまり話題にされないが。
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