詩の紹介 「鞄」 井手ひとみ
(紹介者 江 素瑛)
子供の成長に欠かせない親の匂い。女の子は父親の汗の匂い、男の子なら母の乳の匂い。
体液の匂い、蒸発したら、いつまでも空気に浮遊する。時の移り変わりで、薄くなったり、濃くなったりする。大人になるためにも欠かせない親の匂い。年を取っていくとも、ますます親の匂いをすがりたくなる。
鞄の中に閉じ込められた匂いは、懐かしく変わらない時を語っている。
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「鞄」 井手ひとみ
少女のころそっと父の鞄に入ってみた。それは出張で父が使った皮の大きな茶色の重い鞄だった。私はそれに入るほど小さくて、ずっと入って入られるほどには、大きすぎて、皮革の匂いがうっとりとするほどで、裏の赤い布がびろびろとなっているのがきがかりで、いつまでもここにいたいほどで。そのとき茶の間で鳴っていたのが、大きな掛け時計だった。ある日もうおとなになっていたのに、父の鞄に片足をいれてみた。鞄の中はみずたまりだった。もう捨てようと父は思っていたのだろうか。そっと引き抜いた靴下の先が濡れていた。このまえ私はもう一度鞄に入ってみた。驚いたことにするすると体がはいっていく。私が再び小さくなったのか。それとも鞄が成長しているのか、あのなつかしい革の匂い。ひだまりの匂い。鞄の中には川まで流れていてとおとおと私を運んでいくのだった。
詩集「午後の睡り」より 21世紀詩人叢書(土曜美術社出版販売)
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