世界は魂の在り方見つめ 『宿屋めぐり』で野間文芸賞 町田 康さん(作家)
東京新聞「土曜訪問」(09年1月17日、中村信也記者)
作家の町田康さん(47)が早々と野間文芸賞。数日前に選考があった芥川賞は新人賞だが、野間賞はこの世界の最高峰なのである。
町田さんの作品は、文学に親しんでこなくてもノリノリで読める。「文学は終わった」などというインテリの苦悩を、一瞬にしてポジティブシンキングに変えてしまう。
猫や犬が増えて熱海に引っ越した町田さん。東京に来たところを麻布十番でつかまえた。年末の受賞を振り返ってどうですか?
「選考委員の高橋源一郎さんが『自分ももっと一生懸命書こうと思った』と授賞式で言ってくれたことが、一番うれしかったですね。普通に読むと退屈な部分があるとか、難しいとか、何度も読まないと分かんねえとかでも、それを乗り越えると、いい小説だというのはある。それをどこかで読んでくれている人がいる。そして、時々賞を与えてくれる。だから食っていけなくとも書くことができる。これはありがたいことですね」
町田さんは真っすぐこちらの目を見て語り続ける。
受賞作『宿屋めぐり』(講談社)は、七年にわたって書き継がれた四百字で約千枚、六百ページの大長編。
鋤名彦名(スキナヒコナ)という男の主人公が「主」の命で、大権現に刀を奉納する旅を描いている。謎のくにゅくにゅの皮に呑(の)まれ、「偽」の世界にはまりこむなど、破天荒な活劇が展開される。舞台は日本のどこなのか、いつの時代なのか分からない。
読んでいるうち、「主」をアルジまたはヌシなどと悪い集団の頭目のように読んでいたのが、シュと読めてくる。そして宗教っぽい雰囲気も漂うなか、審問や自問自答のシーンで人間の意識がつづられていく。
ものを考える習慣がなくとも刺激的で楽しく読める。例えばこうだ。
《コンクリートの塊が頭のなかで爆発してぎざぎざの破片が頭蓋(ずがい)骨の内側に突き刺さった。激烈な痛みと異物感。脳内出血。頭蓋骨が内側から割れる。目から銀の粒が溢(あふ)れる。その後、目から剛毛が生えてくる。目毛。》
ちょっと激しすぎるか。ならば、これはどうか。
《咄家(はなしか)に上手も下手もなかりけりいく先々の水にあわねば。という歌を詠んだ落語家があるが、まさにその通りである。そこそこの客にはそこそこの芸をやっておけばよいのだ。》
江戸情緒だろうか? このように、超現実も江戸も渾然(こんぜん)一体なのだ。
町田さんは語る。
「自分の文章の形は『これぞっ』という形で固めて枠のなかで磨いていくというより、とっ散らかった方向にいって作っていきたい。『書きながら考えている』と言っていたことがありますが、十年も書き続けていると、それができなくなるんです。どうしてもうまくなっちゃう。すっきりしていていいんですが、あんまり、いい文章とか、きれいな文章とかは書きたくないという気持ちがあるんですよ。偉そうな文章を書きたくないということです」
次々と自分の文体を壊していく。その上で自分とは何か、世界とは何かという近代文学以来の問いを、魂の在り方として見つめていく。例えば正義を行うとはどういうことか、という問題を執拗(しつよう)に語らせている。
《俺(おれ)たちの周りにはいつもこんな見せかけの義務、見せかけの試練があるが、それにかまけて人のためによいようなことをやっている身振りをして悦に入っているようではだめだ。/そんなことをしていては、本当の義務を果たせない。正しいことは自分の内側にあるのであって、それを外側に求めてはならない。》
町田さんは言う。「信仰をもっていたことは一度もないんですが、幼いころ日本史が好きで、仏像や和尚の絵を模写していたように宗教的なものにひかれる傾向はあるかもしれません。『主』とはキリスト教的ですが、新約聖書のイメージもあれば、旧約のもある。最後には仏教的なところも出てくる。いろんなイメージの断片が入り込んでる」
受賞作を踏まえて、今をどう観(み)ていますか。
「魂の平衡をどうやって保っていられるかだと思うんです。主人公は自分がどこに置かれているのかも、主から何をやらされているのかも分からないわけです。どうしたら、その何かを達成できるかも分からない。やっていることが正しいことなのか、悪いことなのかも分からないわけです」
そして、どうしたら?
「どうせ分からないから適当にやろう、悪いこと、楽なことをやろう、ではなくどうせなら、自分が取りあえず正しいと思ったことを全力でやるしかないんだと思うんです。そういう人は少ないですから、逆に現実的にも何か成果につながっていくかもしれません」
| 固定リンク
コメント