同人誌雑誌論に行き着く前に(5・完)
前回に続いて、小説を「内容的価値」のものと「芸術的価値」のあるものとで、二つに分類してみる話であるが、小説の価値がこの2つしかないと、ここでは仮定する(ちょっと苦しい設定だが)。そうすると、「芸術的価値」のある小説とは、「内容的価値」のないものではないか、ということになるのである。
内容がないものは、それを書くと芸術的になるということになる。内容のない作品というのを現代風で例を挙げると、ヤマなし、オチなし、イミなしという「やおい」のジャンルがそれにあたるであろうか。BL(ボーイズラブ)など、官能小説的な世界でもある。自分は、あまりこのジャンルのことを知らないが、おそらく感覚と雰囲気だけを表現するしかない世界だと思われる。
じつはこの感覚と雰囲気だけを表現するには、かなりの技術がいる。そして、芸術というのは、技術の一つである。作家・野間宏は、「芸術は技術であるから、修練することで上達する」と著作「文章入門」で書いている。
その技術で、感覚や雰囲気を意味もなく、思想もなく表現できるということは、人間の存在そのものを表現するということにつながる。意味のないこと、内容のないことでも、それを表現することで、人間存在の意味性が浮き出てくるのである。そこに「芸術的価値」のある作品の生まれる余地があると、自分は考える。この世界から入るのは芸術的な作品を生み出す道でもあると思う。
小説の読者の一般的な要求を知るのに、ある出版編集者はこういったそうである。求める小説のポイントは「1に、題材、2にストーリー、3、4がなくて5に文章である」。
ところが、「芸術的価値」を狙う小説では、まず文章力が勝負となる。とことが、売れる小説には文章力より、題材の話題性や物語性が重要であるから、「芸術的価値」の作品は、よほど運がよくないと、売れない。そこから文芸春秋のオーナーである菊池寛は、無名作家の登竜門である芥川賞を創設し、脚光を浴びる機会を作ったのではないか、と自分は解釈している。
売れないが、芸術作品の場を持つ。そこに同人雑誌の存在する意味と理由があると思う。
そこから、面白い小説は、数が多い懸賞小説に応募し、面白くなくて、読むのに根気がいる作品は同人雑誌に発表するという方向性があるのではないだろうか。
ところが、現実の同人雑誌には、既成作家の亜流や、書くために書くという志向のもが多くあるので、まぎらわしいのである。
たまたま、最近送られてきた同人雑誌に、このようなテーマにふさわしいものがあるのに気がついた。ひとつは「海」67号(福岡市)で、そこに【「新ぼんくら講義『現代術なし考』」織坂幸治】が収録されている。ここでは、「術」に関する思弁が記されており、興味深く読んだ。これを眼にして、そうだ、この論を書いて終わらせなければ、と思いついたのである。
もう一つは、「婦人文芸」86号の【五行歌「こころ」河出日出子】である。そのなかの書く心に関したフレーズを紹介してみたい。
☆
書く、とは
私にとって
心の調伏
心の安寧への
手段
書いていなければ
心の安寧も
得られない
悲しいかなしい
性格(さが)
☆
このような典型的な作品に出会おうとは予想していなかったが、こうした要素があるので、同人雑誌の作品は、商業ベースにのった作品群と単純に比較しえないところがある。
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