文芸時評<12月>生死、心の機微…短編に凝縮(読売新聞12月24日)
文芸誌の新年号は、以前は新春顔見世興行の趣で、老大家から若手まで現役作家の短編がズラリと番付のように並ぶのが通例だった。そんな伝統も廃れて久しいが、遺風が少なからず残っているためだろうか、今月は短編が粒ぞろいだった。
辻原登氏(63)「虫王」(新潮)が描くのは、コオロギ同士を闘わせる「闘蟋(とうしつ)」という遊びだ。17世紀半ばの中国は明が倒れ、清が興る激動の時代。清軍の揚州攻めで杭州へ妻子と落ちのびた明の趙参将は、亡国の屈託と、流行(はや)り病で娘を亡くした失意の中でコオロギにのめり込み、最強の一匹を育てる。その虫に託された滅ぶ側の無念と誇りが、短い物語の中に結晶している。息詰まるような虫の闘いのあと訪れる結末は、とりわけ鮮やかだ。
石原慎太郎氏(76)「生死刻々」(文学界)は、六つの掌編からなる。その1編「おみくじ」は、肺がんになった〈彼〉の、手術の朝の小さな出来事。仕事も順調、長女は来春挙式を控える。人生の主導権を常に手中にしてきたこの男は、患者という〈生まれて初めての、すべて他人まかせ〉の立場が居心地悪くて仕方ない。氏の文学の特質である生死の対照はここでも鮮烈だが、さらに「老・病」のテーマが低く響いて「生・死」の陰影を一層際立たせた。
ひとつ屋根の下というかすかな縁で結ばれた都心のマンションで起きる不思議な因縁を見つめたのは河野多惠子氏(82)「その部屋」(新潮)。小学校時代の同期生の姉が越してきた。入居した部屋は、前の居住者が浴槽で病死していたといういわく付き。何やら怪談めくが、メールボックス前でたまに顔を合わせる程度の淡い関係に兆す違和感から、平坦(へいたん)な日常に潜む裂け目を見せられる思いがした。
ベテランの年輪を感じさせる作品ばかりでなく、若手も気を吐いている。青山七恵氏(25)「欅の部屋」(すばる)は、別れた後もマンションの別の階に住む男女の機微をとらえた。その女性との出会いと今も残る未練が、別の女性との結婚を目前にした〈僕〉の視点から語られる。青山氏は「お上手」(文学界)では、会社勤めの女性の内面を、靴の修理屋さんとのやりとりを起点に浮かび上がらせている。
今年は大長編が話題を呼ぶことの多い1年だったが、そぎ落とされた小さな世界の中に奥深い宇宙が広がっていく短編小説の醍醐(だいご)味が、ここには確かにある。
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今月はユニークな小説にも出合った。多和田葉子氏(48)「ボルドーの義兄」(群像)は、左右反転した漢字が見出しのように配され、短い断章が積み重ねられていく形式の作品。独ハンブルク在住の日本人女性が、あるきっかけで仏ボルドーへ旅する。その旅に、彼女がこれまで出会った人々の記憶が流れ込む。喪失と無常、言葉と人間の孤独が、それら断片の連鎖するまにまにうごめいている。水村美苗氏『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)が話題だが、多和田氏が日本語で書くことの意味に極めて自覚的な作家であることを再認識させられた。
佐藤友哉氏(28)「デンデラ」(新潮)は、70歳を過ぎて「お山」に捨てられる村の老婆たちが生き延びて作った共同体の興亡を描く。自分を捨てた村への復讐(ふくしゅう)を主唱する一派、襲い来る羆(ひぐま)、流行する疫病――。猜疑(さいぎ)が猜疑を呼ぶ閉鎖された空間ならではの空気を醸して畳みかける、語りの推進力に引き込まれるが、型破りな割には展開が意外にオーソドックス。物足りなさも少し残った。
今月完結した伊藤たかみ氏(37)「海峡の南」(文学界1月号~)は、祖父の容体が悪化し、はとこと北海道に行った〈僕〉が、行方不明の父の記憶を呼び覚ます物語。若き日の父は、内地に何を夢見て津軽海峡を渡ったか。関西で無謀な金もうけを企てては失敗を繰り返し、やがて行方をくらました父の不在が、心定まらぬ自身の現在に重なる。祖父の死に目に駆けつけるかもしれない父を待つ宙づりの時間の中で、自らの長すぎた青春を見つめ直している〈僕〉のためらいが魅力的だった。(文化部 山内則史)
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