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2008年11月30日 (日)

文芸同人誌論に行き着くまでに(4)

菊池寛の文学論のなかには、小説には「芸術的価値」のあるものと「内容的価値」があるものがある、とする考えがあったらしい。
 この分類は、わかりやすいが、深みに欠けるので、文芸評論にはあまり用いられないようだが、自分のような粗雑な頭には簡単でわかりやすいので、しばらくこの論を当てはめて文学を考えてみようと思う。

菊池寛は、小説「恩讐の彼方に」を書いた動機として、大分県の断崖の交通の難所に、生涯をかけて、ある禅僧が青の洞門をくりぬいた史実を知ったからだと述べている。
「この実話は、話を聞いただけで、誰もが感動するものがあり、自分はそれを小説にしただけだ」と語っている。彼は、この事実を素材に、小説ではその僧を了海とし、悪事をなした罪滅ぼしに、トンネルを掘り始める話にした。一方で、彼の過去に殺害した男の息子があだ討ちに来るが、彼のトンネルを掘る情熱に心を打たれ、トンネルを掘り終えてから、仇を討とうと、トンネル掘りに協力する、という創作に変えた。
このようなエピソードのように、話を聞いただけで感動するような小説を「内容的価値」のある小説と考えていたのではないか。
ほかに、例を挙げると、西洋では、映画「タイタニック」にも用いられた逸話もある。
それは、氷に閉ざされた北欧の国の昔の実話である。ある婚約した仲の若い男女がいた。ところが、婚約者の男が山で道に迷い、行方不明になってしまう。どこかで遭難死したらしい。残された女性は、毎年雪解けの時期になると、婚約者を必死でさがした。何年も、何年も探すが見つからない。そして、ある年に、彼女は見事、婚約者の遺体を探し当てた。
婚約者は、昔のままの若々しい姿で眠るようにそこにいた。しかし、長年の苦労の末に婚約者を探し当て、感激に涙を流す女性の婚約者は、老いさらばえて、しわにまみれた老婆であったのだ。
 この実話は欧米では、相当有名らしく、換骨奪胎した現代小説が、翻訳されたなかに多くある。これも「内容的価値」によって、誰が書いても感動する要素がある話の例ではないだろうか。

その一方で、「芸術的価値」の小説とは、読んで、作者が芸術的な特殊な才能をもって作ったと思わせる作品である。これは人によって感じ方が異なる。
とにかく、作家になるには、「芸術的価値」か「内容的価値」のある作品を書いて世に出ればよい。当時にあって、まさに作家になることは出世なのである。菊池寛は「内容的価値」のある作品を書くには、必ずしも芸術的な才能が必要とは限らない。人生体験から生み出せば良い」と考えていたようだ。
作家志望者のつくる同人雑誌には「芸術的価値」か「内容的価値」を盛り込んだ作品が集められている筈だ。そこから優れた新人を発掘しよう。こういう前提で同人雑誌を読んできたのが、雑誌「文学界」の同人雑誌評であろう。優秀賞という優秀とは、この2つの要件を満たしているということだ。たしかに、同人誌の多くは、そういう作品の発表の場になっている。

しかし、最近は「芸術的価値」を狙ったものでもなければ「内容的価値」を狙ったものでもない作品が多くなった。自分が、読んできた中にも、なんのために書いたのか、わからない作品が多くなっている。
雑誌「文学界」12月号の同人雑誌評の担当の評論家各氏の座談で、「いつからか作品のレベルが落ちてきた」という話が出ている。
これは、2つの価値観から外れた思考法から書かれている作品が増えたということであって、単にレベルが低くなったという感覚で、終わるものではないであろう、と自分は思う。
 要するに、小説を書くことを、出世の手段とは考えていないで、書くために書いたらできちゃった、というような作品のことである。それが偶然に秀作であることがあるので、一概に軽視はできない。

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