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2008年11月 5日 (水)

同人誌「グループ桂」(小山市)」59号に関するエピソード(3)

作品は本来、縦書きである。
「寸編(すんぺん)小説から」

「帰途」 北一郎
電車は春の黄昏を走っていた。日曜日を利用して親戚の寄り合いに行ったのだ。そこで私は生活の有り様について批判を聞かなければならなかった。茜に染まった西空を車窓に眺め、うろたえた私の想念は、結局そのことに引き戻されてしまう。真面目でないわけではない。すべては自分の器量の小ささにあるのだ。その恥は、しかし自分らしい生き様の当然の帰結ではないのか。「ねえ、パパ。きょうは遠くまで行ったわね。山や田んぼがたくさん見えてさ、ほんとうにパパについて来てよかったわ」と、連れていた小学一年の娘が言った。「うん、そうだな。よかったな」私は娘の手を握り返した。電車は恥辱から、逃げるように薄闇のなかを疾走していた。しかしそれでも恥辱は振り切られることなく、嫌らしく身体にこびりついて来ている。一生忘れさせないぞ、眠らさないぞ、というように。


伊藤桂一師の論評
「まあ、これはこれだけのことなんだけれどねえ」。「そうねえ?子供は無関心だからね。 なにしろ作者は、普段はまともな小説を書くのだから・・・」。
それ以上の論評なし。

北一郎の反省=自分でも、それだけのこと、と思う。おそらく、作者のひ弱な神経というのは、伊藤先生のおおらかな生活感覚とは、ずれがあるのだろうと思う。しかし、小説のかけらがあるのではないか?と自分では思える。まだ工夫は必要なのかもしれない。

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