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2008年11月 6日 (木)

同人誌「グループ桂」(小山市)」59号に関するエピソード(4)

作品は本来、縦書きである。
「寸編(すんぺん)小説から」
「或る夏 (池上本門寺にて)」 北一郎
太陽が音をたてて大地を灼いているように思ったが、それは蝉の声だった。本堂の屋根瓦や石畳にとろとろとした空気がゆれている。一匹のトカゲが叢から顔を出した。無表情なガラス玉のような眼。錦色の腹部が、かすかに規則的な動きをしている。突然、残酷な感情が私の内部に広がる。踏みつぶしてやろうか。その刹那、とかげは一直線に走り、なまぬるい泥水の向こうにすべり込んだ。つかの間、私の悪意に満ちた気配に、蝉の声も鳴り止んだように思ったが、それは三十代の男の空虚な錯覚だったにちがいない。いつしか季節は、拒絶しはじめた時間の指標となり、私の生のかけらを奪い去るようだった。


伊藤桂一師の論評
「これはねえ。『太陽が音をたてて大地を灼いているように思ったが、それは蝉の声だった。』で決まってしまっているわけだよ。だけど、作者には、まだ書かないといけないという考えがあるのだろうね」「たしかに、蜥蜴は周囲の空気を鋭く察知するからね。そんなところだね」。
それ以上の論評なし。

北一郎の反省=まさに、指摘された通りで、一行書いてから、その閃きを消さないで、もっと高みにもっていこうと悪戦苦闘したものだった。伊藤先生は、自分の頭を見抜いていた。それというもの、文章には構造のという宿命があるからだ。先生が、それ以上の指摘をしなかったのは、高みにもっていけていないが、失敗もしているとも言えない、どうでもいいところで蛇足に終わっているからであろう。文章にも「みえないけれど、道があるのだよ。みえない道があるんだよ」ということだと思う。北一郎としては、「寸編小説」というものを、この見えない文章論理に沿っていることを条件としたいわけである。これが、感覚的な「超短編」と基本的に異なるところになる。もっともまだ、伊藤桂一師は、答えをくれていないが。それでも、早くも「寸編小説」のパターンをのみこんだらしく、以後の作品には手厳しい指摘が待っていた。

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