『文芸時評 1993-2007』=川村湊・著(水声社・5250円)
今週の本棚:沼野充義・評 (毎日新聞 08年8月17日 東京朝刊)
◇現代文学の頼もしい案内役
文芸時評はもう要らないのではないか、という懐疑的な意見をよく耳にするようになった。しかし、文芸時評はまだ着実に続いているだけではなく、それが持続し、積もり積もると時代の記録としてかけがえのないものになる。かつての文芸時評の巨人、平野謙や江藤淳の例は引き合いに出すにはもはや遠すぎるとしても、最近でも、『産経新聞』に掲載された時評をまとめた荒川洋治の『文芸時評という感想』(四月社)、『東京新聞』などの新聞三社連合で配信された時評をまとめた菅野昭正の『変容する文学のなかで』(全三冊、集英社)といった優れた仕事がある。そこに新たに付け加わったもう一つの雄弁な声が、本書にほかならない。
これは川村湊氏が『毎日新聞』に掲載してきた文芸時評を集大成したもので、十五年間休むことなく続けられた結果、二段組で六三〇ページを超える大冊となった。索引を見ると、言及された人名が八百名を超え、作品数は千六百点以上。壮大な現代日本文学のパノラマがここにある。富岡幸一郎氏がすでに指摘しているように、いまだに書かれていない現代文学史に代わる記録として本書が持つ意味は大きい。
川村氏の時評の際立った特徴をあげると、第一に、主な批評の対象をその月の文芸誌に限るという一貫した姿勢がある。これは本来、文芸時評の基本のはずだが、最近は文学概念の拡散の結果、マンガやケータイ小説もあわせて論ずる批評家もいるくらいだから、川村氏の方針は禁欲的にさえ見える。この「ぶれない」姿勢のおかげで、「奇をてらわず、定点観測を心がける」という川村氏の初志がみごとに貫徹された。
第二には、作品中心主義。社会的な状況が論じられないわけではないが、作品の読解と評価があくまでも中心になっている。たとえば大江健三郎がノーベル文学賞を取っても、「直接的には『文学』の問題と関(かか)わりない」と判断して時評では触れないのに、その数ケ月後に完結した大江氏の長編『燃えあがる緑の木』については大きなスペースを割いて論じている。こんなふうに時の話題という誘惑を振り払うのは時評家にとって容易なことではない。
第三には、現代日本における多言語的・越境的要素やアジアに対する目配りが優れていること。新しい日本文学の光景を切り拓(ひら)いてきた笙野頼子、多和田葉子、車谷長吉、町田康、舞城王太郎といった作家たちの仕事を丹念に追っている一方で、在日朝鮮人作家、金石範、沖縄の作家、崎山多美、アメリカ出身の日本語作家、リービ英雄などにも一貫して光が当てられている点が注目に値する。
『文芸時評 現状と本当は恐(こわ)いその歴史』(彩流社)という浩瀚(こうかん)な研究書を刊行した吉岡栄一氏によれば、最近の時評は「甘口」になっているというのだが、最後に川村氏の時評のもう一つの特徴を付け加えれば、決して甘口ではなく、手放しで褒めているものが意外に少なく、たいていの場合欠点の指摘や苦言が盛り込まれている、ということだ。昔の文芸時評が言いたい放題の悪口や個人的趣味の誇示のせいでより辛口に見えたのは、仲間内で成り立つ「文壇」という制度に支えられていたからではないか。しかし、作品の長所と欠点の両方をバランスよく示す優しくも厳しい川村氏の言葉は、文壇崩壊後の時代に、仲間内ではない読者に向けられた開かれたものだ。だからこそ、この文芸時評は現代文学の頼もしい案内役として、まず読者に必要なのである。
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