« 「読売ウイークリー」が休刊へ | トップページ | 第1回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞は、松本さん「玻璃の家(はりのいえ)」 »

2008年10月30日 (木)

文芸時評<文学10月>(読売新聞、10月28日)

(文化部 山内則史記者) 携帯さえあれば話せる。便利な道具を手にした反面、現代人はじかに話し、接触する「直接性」から遠ざけられている。今月は文芸誌3誌に新人賞が出そろったが、文藝賞の喜多ふあり氏(28)「けちゃっぷ」(文藝冬号)は、そんな時代の感触をよく伝えている。
 親の仕送りで暮らすニートの女性〈私〉は、3か月誰とも話さず、自分の考えや妄想をひたすらブログに書いている。〈私〉のブログにコメントを書き込んだヒロシが目の前に現れても、会話はブログを介して。〈私〉には、テレビの中もネットの中も現実の世界も、〈自分との距離が等間隔の同じ一つの世界〉としか感じられなくなっている。
 ヘラヘラ笑いのブログ文体で疾駆するこの小説の、ある種のばかばかしさの中で、世界の速度を停滞させるかのような映像のもたらす重苦しい不安が、〈私〉にも読者にも、一段と切実に迫ってくる。
 「野ブタ。をプロデュース」でデビューした白岩玄氏(25)は、4年のブランクを経て受賞第1作「空に唄う」(同)を書いた。23歳の僧〈海生(かいせい)〉と、病死した同い年の女性の霊との交流と別れを描くゴースト・ストーリー。その女性の通夜の席で、住職である祖父の脇で経を上げた海生は、死んだはずの彼女の姿を棺の上に見る。見えているのは海生だけ。自らの死を実感できない彼女には、海生と自分の声以外に音が聞こえない。
リアルな感覚から大きくはずれていかないのは、ネットやゲームの仮想世界と現実が併存する現代と、あの世とこの世がつながっている小説世界が、似通っているからかもしれない。バーチャルとリアルを行き来することは、現代に生きる人々には日常になっているのだから。
 今月は、親子関係を見据えた秀作が目立った。津村記久子氏(30)「ポトスライムの舟」(群像)は、昼間は化粧品工場のライン労働、夜はカフェで給仕のパートとデータ入力の内職、土曜はパソコン講師といささか働き過ぎの30歳前の独身女性が主人公。母親と住む奈良の古い大きな家に、離婚騒動で学生時代の友人が幼い娘連れで転がり込んできたことから、やがて働くことに縛られた生活に変化が兆す。工場の同じラインの同僚など、市井の人々の生活の根っこにまで届いている作者の目線は細やかで、そこから暮らしのにおいが立ち上ってくる。
 父と娘の隔靴掻痒(かっかそうよう)の感情を巧みに切り取ったのは青山七恵氏(25)「かけら」(新潮)。父とふたり、サクランボ狩りの日帰りツアーに参加するはめになった20歳の大学生が、まともに話したことのない父との気詰まりな時間の中で、これまで目にしたことのない、愛想のよい父の顔を発見する。親子ではあるが他者でもある肉親という存在の両面性を照らし出す上で、カメラという小道具が利いていた。
 磯崎憲一郎氏(43)「世紀の発見」(文藝冬号)では、石油掘削設備の技術者として海外でも長く働いた中年男が、少年時代の不思議な出来事を思い起こし、親にとっては子供の存在だけが〈人生の時間を現実に繋(つな)ぎ止めておく担保〉になっていることに思い至る。デビュー作「肝心の子供」にもあった、脈々とつながっていく命の連続性への意識が、小説の時間の中でゆったりと息づいていた。(文化部 山内則史)

|

« 「読売ウイークリー」が休刊へ | トップページ | 第1回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞は、松本さん「玻璃の家(はりのいえ)」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「読売ウイークリー」が休刊へ | トップページ | 第1回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞は、松本さん「玻璃の家(はりのいえ)」 »