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2008年8月 9日 (土)

個人誌「孤愁」第4号(横浜市)の編集後記から

 「孤愁」第4号に、豊田一郎氏の「編集後記」がある。なんでも「フリーターとしての小説家」という一文を読んだそうである。そのなかに「文学というものは、お金のためにやっているわけではないので、それでもいいと割り切るしかない。しかしそんな割り切り方をしてしまうと、売れなくてもいいというアマチュア的な気分になって、作品が独善的、閉鎖的になり、本当に売れないものしか書けなくなるおそれがある」とか、「小説家はフリーターであると同時に、独立採算の業者みたいなものだから(青色申告で妻に給料を払っている)、経営の安定のために、業務の計画を立お頃から、わたしは文学にこだわらなくなり、文学にこだわる人に特有の傲慢さと無縁になった」とか書いているらしい。
 豊田氏の説明によると、「この人は大学の客員教授として小説の書き方を教え、その教室から、いわゆる売れる小説家を輩出している」らしい。これに対し、豊田氏は、文学は自動車を作り売ることとは異なるのではないだろうか、とし、文学はそれでいいのか? と疑問を呈している。

 自分は、豊田氏の紹介している「フリーターとしての小説家」の理屈にそれほど違和感はない。売れる、売れないは、時代に合っているかどうかの問題で、車だって時代にあっていなければ売れない。ガソリン高騰で、エタノール、天然ガス、電気などをエネルギーとするものが脚光を浴びてきた。時代がそこに向いてきたからである。ただし、品質がわるいと売れない。品質がよいことが必要条件である。小説でも品質の良いことが必要である。それでも時代に合わなければ売れない。

 現代において、文芸同人誌のあり方と、文学的芸術的な行為との結びつきは、実はそれほど強くない。それを、いかにも芸術性だけを協調する人に出会えば、たいてい傲慢な人に見える。
 自分は、社会的な関心から文芸同人誌を読んできたが、日本人がものを書くということに、大変な価値を見出していることを知った。では、なぜなのか。一番大きいのは、書くことが心のツカエや憂鬱、うっぷんを解消することにあるからだと思う。精神を安定させ、充実感が得られる手段である。
 あとは、サークルの仲間意識の充足であろう。だから、出来上がった作品は、その過程で「出来てしまったもの」で、市場で売るなどということは考えていないものが、ほとんどである。そのなかで、たまたま社会的なニーズに出会ったものが売れているのである。自分は、同人誌の作品に、つまらないものや、くだらないようなことが書いてあっても、別に文句を言う気にはならない。あって当然であると思うからである。
 そういう作品を安易に批判してはいけないような気がする。その作品に自信がないからこそ、批判されると激怒することが多いようだ。自分で、書いてみれば、その気持はよくわかる。また、批評しやすいものだけを批判して、よい面を見出せない読解力不足の人しかいない文学仲間は、さびしい気がする。
 「売れる、売れない」の市場性からみると、文芸評論家や小説公募の審査員は、その芸術性の深さを見ながら、同時に小説の品質を吟味していることになる。

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