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2008年8月 2日 (土)

詩の紹介  COGITO,ERGO SUM ? 千早耿一郎

 (紹介者・江素瑛)
 前にも紹介した作者の作品「われ思う されどわれなし」と異曲同工の趣があり、身体と心が一時的に分離する精神状態を面白く感傷的に描かれている詩です。
 意識的、無意識的、潜在意識の行為によって、われが思うものが大分違ってくる。
 視覚にかんじるものや、聴覚に聞いたもの、ものがいるようでいない、いるものが脳にいなくなる。その反対語DE'・JA' VU 既視感は、はじめてのことなのに、すでに知っているような、ないものがすでに記憶していると感じる。
 ものはどこに存在するのか、本当に自分はいたのかしら? 疑う心を持たないと、追求しないと、詩と哲学が生まれないのだ。
             ☆
      COGITO,ERGO SUM ?  千早耿一郎
朝 目を覚ますと/ぼくがいなかった/昨夜はたしかにここに寝た/疲れはて倒れこむようにして寝た/たちまち深い海に引き込まれた
深夜激しく咳をした/ぼくの肉体は激しく捻れた/天と地とが咳で捩れ/千々に分裂して四散した/そうしてぼくはいなくなった

ぼくはいったいどこへ行ったのか/デカルトは言った/ "COGITO,ERGO SUM "/"われ思う ゆえにわれあり"と/いまぼくはたしかに思っているのだが
もしかしたら脱出したのだ/かのいやな三次元の世界から/四次元へそして五次元へと/光りもなければ暗黒もない/無限銀河のここは世界
"おい どうしたのだ"/気がつくと若い男の声がした/あいつだ いっしょに突撃/おれをかばって弾に当たり死んだ/お前だったか とぼくは言った

裂けた青春が集まってきた/ここには闇も光りもない/汚辱も汚濁も裏切りもない/ほら見ろ地球がいま/腐り歪んで燃えている
                  「騒」第74号より 2008年6月(町田市)
※鶴樹(注)「近代哲学の父」とされるデカルトが考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり(Je pense,donc je suis.)」(Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム(ラテン語訳))は有名な定義。当時の保守的思想であったスコラ哲学の「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求する近代哲学の出発点を簡潔に表現。
 こうして、思うがゆえに存在するとわかった自分は、社会では、ほかのみんなが認めないと、存在の意味がなくなる。それを追求したのがヘーゲルの社会論。経済社会において、自分の作った商品が売られて価値がつくのに、作った自分は無視されるのは問題だ、と考えたのがマルクスの疎外論。人間は相手の存在をまず認めてやると、相手は自分を認めてくれる人は、認めざるを得ない。そこから社交がはじまる。

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