「さわさわ」4号(大和高田市)作品紹介(1)
「重信房子さんを支える会(関西)会報」(発行者・森本忠紀)である。拘置所の重信氏の暑中見舞いが掲載されていて、元気なようだ。
【連載「私の京都・大阪物語」(4)重信房子】
赤軍派時代に、大菩薩峠事件のあと、逮捕され釈放された。そのために、家族に迷惑をかけたことなどの経緯が書かれている。時の流れというものは、困ったもので、それを説明するのは、第3者としては手間がかかって面倒くさい。しかし、重信氏は当事者であるから、逐一詳細に書いているのは、事情確認のうえで有難い。部分を紹介すると、なかにこんなことが書かれている。
「社会全体から見たら、当時の学生層は、いわば『裕福』な家庭に属しており、社会全体を揺るがせたというわけではありませんでした。それでも、社会全体は、政治や社会問題を問う空気に満ちておりました。そこから、どう、人々とともに闘うのかという回路を私たちは持ちえませんでした。」
重信氏は、M大文学部系であり、幹部としての道を歩き始める前の時点であろうか、理論的には、海外への展開はいくらか合理性があったので、国内にいなくてよかった、といえば良かったように思う。短歌の秀作も、むこうでの体験が生きている。世界で類のない短詩作家になっている。
自分はH大の経済系なので、重信氏とは、また現状把握が異なっていた。が、たしか同級生たちは、商店の息子や上・中産階級の出身が多かった。こちらは、プロレタリアートで、いつも金欠なので、彼らに食事をおごってもらってばかりいた。ある時、M大出身の男の人に会ったが、それも貧乏人。重信さんにおごってもらったことがあるそうだ。彼女を、女王様のように語るので面白かった。自分は、重信氏の短歌を読んで、文芸家として見直してしまった。
あの頃、自分は同級生の女子と帰りに一緒になったことがある。なにかの拍子に、財布に一円もなくて、それを知った彼女が驚愕していた。「よく、それで外があるけますね」というから、「どうして、定期券があるから、家には帰れるよ」といったら、「恐ろしい人」と敬遠された。それでも、「なにをいうか。プチブル女が」と、おもったが、嫌われて当然と思っていたので、「かわいいお嬢さん」という印象を捨てることはなかった。ちょっと気取って飯田橋のホームにたつ彼女は素敵だった。
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