ある断片からー資本主義社会の本質
資本主義は、人間の悪徳性がなければ、こんなに発展することがなかった、という発想を小説のなかに入れてみた。
(伊藤鶴樹の小説「川のある下町の人々の一日」より抜粋)
(前略)
「簡単にわかりやすくか。そうだね、いまの時代は、なにか前向きとか、勝ち組とか、よき社会人でなければならい、という価値観が一般的ですよね。
ところが、社会が段階をへて発展するものであるという考えが出始めた時代は、人間はもともと悪徳のかたまりで、強欲なものであり、その悪い根性が、社会と経済の発展を促した、という思想だったのです。その人間観がどこでどのように変わってきたのかを研究しようと思っているのです。
たとえば一七〇五年にマンデヴィルは『蜂の寓話』で商売の源泉を『悪の根という貪欲こそは、かの呪われた邪曲有害の悪徳。これが貴い罪悪である濫費に仕え、奢侈は百万の貧者に仕事を与え、忌まわしい鼻持ちならぬ傲慢が、もう百万を雇うとき、羨望さえも、そして虚栄心もまた、産業の奉仕者である』と書いているのです」
「突飛で簡単な話なんですね。昔は、どうして、そんなにいじけた考えだったのですか」
「それは、いまも同じでしょう。たとえば、新聞、テレビ番組、インターネットの情報などで、大衆が人の不幸を見たい、芸能人のスキャンダルや離婚を知って、嫉妬心を満足させたい、という欲望が購買意欲を支えているのです。パチンコ産業だって、働かずに簡単にお小遣いを稼ごうといういじましい人が居なくなれば、さびれてしまいますよ。我々は、この喫茶店に来なくなって、ここもさびれてしまうでしょう」
「そういえば、私なども近所の人と立ち話をした時に新聞の三面記事に事件がないと、今日の新聞はつまらないわね、とか言っていたことがありますよ」
「人間の自分勝手な自己中心主義は、誰もが平等に持っています。それはこの宇宙に引力が存在するのと同じ、基本的な原理です。そこにマルクスが、それをベースにした社会論を社会科学とした根拠があるわけです」(後略)
物を大切に、無駄をせずに、見栄を張らず、人間は良いことしかしていけないという、進んだ思想を持つと、そこでは資本主義が栄えることはない。そして、原始的な生活を維持する進んだ精神的思想の民族や人種を、未開人として扱う精神こそ、資本主義社会によって、思想的に退化してしまった人たちなのである。
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