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2008年3月 2日 (日)

詩の紹介 「われ思う されどわれなし」 作者 千早耿一郎

 (紹介:江素瑛)
 われの定まれる姿を否定する「無我相」という「金剛経」にある仏教思想を思い出される詩。われがありながら、われはいない。
 脳細胞のニュ-ロンの思う通りに引きつられて、いるかいないかは、考え一つであるようです。
 詩全体の流れは、人間の考えと行動の矛盾さをユーモアに描かれて、考えさせられる作品です。
         ☆
    われ思う されどわれなし      千早耿一郎

朝 目を覚ますとぼくがいなかった/時計を見ようと手を伸ばしたら手がない/布団をめくって足を見ると足がない/そう言えば胸も腹もない/洗面場に行って鏡を見たら/そこにぼくの顔はなかった

いやな顔だと思った/貧相で知性のかけらもない顔/早く別れたいと思っていた/ぼくのそんな思いを察してか/あいつは不意にいなくなった/手や足や胴体まで引きつれて/深夜ひそかに逃亡したにちがいない

それでも いなくなったとなると/なんとなくさびしい/それにしても/さびしいと思っているのはだれなのか/ほら デカルトは言った/COGITO ERUGO SUM/ーーわれ思う ゆえにわれあり/まぎれもなくおれは思っているのに/それでもおれはいない/ーーわれ思う されどわれなし 

目がさめた/あれは夢だった/なんとなくホッとした/そして鏡を見たら/そこにぼくはいなかった

いなくなったぼくを探して/今日もぼくはさまよっている

 詩誌  2007年 「騒」第72号より 騒の会(町田市)。
鶴樹(注)=禅の修行者が好んで学ぶのが「無我相」。万物が変化するということは、実体が定まった形をもっていないから変化ができる。万物は、無我の相(我のない形・我という形はない)をしているとするもの。それをセンチメンタルに感受したのが、「諸行無常」である。しかし、禅では変化のなかに永遠と真実があると積極的に感受する。

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