詩の紹介 「われ思う されどわれなし」 作者 千早耿一郎
(紹介:江素瑛)
われの定まれる姿を否定する「無我相」という「金剛経」にある仏教思想を思い出される詩。われがありながら、われはいない。
脳細胞のニュ-ロンの思う通りに引きつられて、いるかいないかは、考え一つであるようです。
詩全体の流れは、人間の考えと行動の矛盾さをユーモアに描かれて、考えさせられる作品です。
☆
われ思う されどわれなし 千早耿一郎
朝 目を覚ますとぼくがいなかった/時計を見ようと手を伸ばしたら手がない/布団をめくって足を見ると足がない/そう言えば胸も腹もない/洗面場に行って鏡を見たら/そこにぼくの顔はなかった
いやな顔だと思った/貧相で知性のかけらもない顔/早く別れたいと思っていた/ぼくのそんな思いを察してか/あいつは不意にいなくなった/手や足や胴体まで引きつれて/深夜ひそかに逃亡したにちがいない
それでも いなくなったとなると/なんとなくさびしい/それにしても/さびしいと思っているのはだれなのか/ほら デカルトは言った/COGITO ERUGO SUM/ーーわれ思う ゆえにわれあり/まぎれもなくおれは思っているのに/それでもおれはいない/ーーわれ思う されどわれなし
目がさめた/あれは夢だった/なんとなくホッとした/そして鏡を見たら/そこにぼくはいなかった
いなくなったぼくを探して/今日もぼくはさまよっている
詩誌 2007年 「騒」第72号より 騒の会(町田市)。
鶴樹(注)=禅の修行者が好んで学ぶのが「無我相」。万物が変化するということは、実体が定まった形をもっていないから変化ができる。万物は、無我の相(我のない形・我という形はない)をしているとするもの。それをセンチメンタルに感受したのが、「諸行無常」である。しかし、禅では変化のなかに永遠と真実があると積極的に感受する。
| 固定リンク
コメント