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2008年3月21日 (金)

「辞める理由、続ける理由」(5) 麻葉佳那史

 年が明け一月は客の少ない日が続いたが、二月になると土日は婚礼がはいっている日がある。従業員の昼食ののち披露宴の料理開始までの少し間のある時、安藤さんが、「こないだ、ナイフやフォークの拭きが甘いといわれて、洗い直すようにいわれたが、タオルが少ないからすぐ濡れちまってしょうがねえじゃねえかなあ」とぼやくので、「ほんとですね、私もいわれたんで、タオルを増やしてもらいたいっていったんです。そしたらホールで使う布を寄越したんですが、その布は地が厚いんで拭き辛いですよ」と同意のつもりでいった。すると「ホール係はわかってねえなあ、なんでも文句をいえばいいって思ってがる」と憤慨のようすだ。私はうなずいた。
 昼の仕事が終り、夕食までの休憩のとき、安藤さんは更衣室で休まず、外に出かけた。一時間でも気晴らしに歩いてくるという。少しのあいだでも建物内にいるのが鬱陶しくなったのだろうか。
 三月半ばになって、夜に立食パーティがある日、昼の仕事が済んで更衣室で休んでいると安藤さんが出勤して来た。「おふくろの具合が悪いんで、今夜、仕事ができないっていいに来たんだ。医者が親戚を呼ぶように、というから、どうなるかわからない」といい、部屋を出た。ホール係の人にその旨を伝えて帰るという。
 翌日ホール係の人が「安藤さん、来てくれますかね」と聞くから「さあ、わからないですね」と答えた。「でも、もう来ないんじゃないかなあ」と胸の内でいった。なにかそのような気がした。
 電話番で椅子をあたためていた人が、四、五時間から八時間の立ち仕事にかわったら体がよほどきつかろうと想像できた。ましてや六十歳になってからではなおさらだろう。
 母親がいい口実になった。
 それにしてもナイフやフォークの拭きの甘さを指摘されたことが、安藤さんの中で強く響いたのだとすれば、私にいわなかったか、聞き流してしまった不満がもっとあったのかも知れない。約六か月の勤務ががまんの限界だったのだろうか。(つづく)

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