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2007年9月 4日 (火)

小泉今日子の書評・江国香織「がらくた」(新潮社)

「自分が自分であることを確かめられるものはなんにもないのかもしれない。そんなことを考えて少し不安になった。自分の体に思い切り鼻を押し付けて、その匂いを嗅いで確かめたくなるような小説だった」。「世代の違う3人の女たちが海外のリゾートホテルで出会う。45歳の柊子。その母親で74歳の桐子さん、そして15歳の美海。柊子は毎朝海辺で見掛ける美海に興味を抱く。その理由を桐子さんはこう分析する。<子供と大人の中間で、あんたが失ったものと手に入れたものを両方持っていて。いましかないっていう種類の生命力があるから>。その一過性の輝きは、過ぎてしまった者にとって、すごく眩しい光なのだろう。私は柊子と同じように、美海がヘッドホンで聴いている音楽が何なのか知りたくなったし、彼女が口にしたピーター・スピアという作家の本を読んでみたくなった。彼女のことを知ることで、失ってしまったなにかを取り戻せるような気がしてしまう。」と書く。(読売新聞9月2日付)

金剛経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」というものがあるが、これは、平凡な、これといって輝かない日常から、脱出しようとする女心の揺らぎなんでしょうか。毎日が輝かないといけないという決まりはないのだが・・。

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