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2007年9月29日 (土)

把瑠都だけでなく、里山、白乃波、境川、南、山本山、浜栄光、薩摩力も元気

大相撲・尾上部屋の話題となると、把瑠都が一番だが、他にも里山、白乃波、境川、南、山本山、浜栄光、薩摩力も元気である。部屋別の勝率ではいつもトップかトップクラスである。《暮らしのノートPJ・ITO:スポーツ芸能

大相撲秋場所は、 「把瑠都十両優勝で意気あがる尾上部屋」。吉本興業の「ジパング上陸作戦」の加藤と、コンビ“つばさ・きよし”の3人が司会をした。
やはり、面白くて盛り上がった。
 この日は、相撲絵師・木下大門氏の平成19年秋場所絵番付が渡された。みごとなものである。


 それにしても。時津風部屋の弟子しごき死事件には、驚いた。北の湖理事長のNHKニュースでのコメントにはもっと驚いた。「部屋によって、稽古のやり方はいろいろあるが・・・」云々の弁。ビール瓶で頭を殴るのが稽古とは、あきれた。そんなことで、相撲界にわが子を入れる親がまだいると思っているらしい。社会的な存在の意味をまるで理解していない。こんな調子では、どこかで、過去にも同様なことがあったに違いない。相撲界が存亡の危機にあることを理解していないようだ。

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2007年9月28日 (金)

文芸時評・9月(読売新聞)山内則史記者(1)

《対象作品》大江健三郎氏(72)今月完結臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」(新潮)=読むことと書くことの往復の中から構想されたと思われる作品。松山高校時代から愛読する日夏耿之介(ひなつこうのすけ)訳『ポオ詩集』の一節があり、ナボコフ『ロリータ』との照応がある。息子の〈光〉と歩行訓練していた〈私〉は、エリオットの詩から引用した英語で声をかけられる。相手は〈木守 有(こもりたもつ)〉。駒場の大学で知り合い、後に国際的な映画プロデューサーとなった彼は、女優の〈サクラさん〉を主演にドイツの作家、クライストの生誕200年記念映画を日本で撮るべくシナリオを私に依頼するが、撮影クルーのスキャンダルで計画は頓挫する。以来30年ぶりに現れた木守の目的は、一度はついえたその映画の企画をやり直すこと。それによってサクラさんは、幼いころアメリカ軍人に強いられたあるものに、復讐(ふくしゅう)しようとしている。『取り替え子』『憂い顔の童子』『さようなら、私の本よ!』と続いた三部作と作品世界は地続きの印象で、木守と私は大江作品になじみの「おかしな二人組」にも見えるが、明らかに存在を際立たせているのはサクラさん。三部作に流れていた老人の愚行と憤りの熱はやや後退し、サクラさんを苦しめていたものと、それに端を発した精神の失調、私の故郷、四国の森に残る歴史と伝説を結んでの生の回復が、結末の希望へと開かれていく。『「雨の木」を聴く女たち』にも通じる、切なくもおおらかな読後感は、女性を描いたことから来ているかも知れない。三部作を経て氏の「後期の作品(レイト・ワーク)」が、次の局面に移ったことを感じさせる一作だ。

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同人誌「文学街」240号(東京)作品紹介など(3)

近年の「文学街」は、その活動と掲載作品に勢いがあり、活き活きとしている。自分の知る範囲では、主宰の森啓夫氏は、長い間、全国同人雑誌作家協会で、運営に力を注いでいたが、そこでは、文学的主張を十分に発揮できないと感じたようで、同協会を退会し、「文学街」の充実に力を注ぎ、文学的主張の実現にとりかかり始めたようである。その後、森氏の去った全国同人雑誌作家協会は、「全作家協会」と名称を変更している。

もともと「文学街」は、巻末に読者との交流の頁があり、作品発表者と会員読者との意見交流が記されている。自分も同人誌の同人誌らしさとは、どんなものかという関心からしばらく会員となって、愛読させてもらった。また、文芸評論家の岩谷征捷氏の掲載作品論が毎号掲載されるなど、読者側の充実ぶりが顕著である。近年は、会員も200名を超え運営も手一杯という話しも聞いたので、今頃は300名近くになっているのでなかろうか。
文芸思潮の五十嵐勉氏の活動とも連携したり、全国の同人雑誌からの推薦作品を再掲載する企画、「作家&読者交流の集い」を東京で開催するなど、全国の同人雑誌運営者や作家との交流を深めている。こうした見方は、自分の解釈のもので、他にもあるかもしれないが、外部から見た流れは当たらずとも遠からずではないかと思う。
「文学街」発行所=〒168-0065東京都杉並区浜田山2-15-41「文学街社」。

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同人誌「文学街」240号(東京)作品紹介など(2)

【「傀儡の指先」荒井登美子】
作者は今年の「農民文学賞」受賞者。40歳代の「私」は、家庭の主婦。子供ふたりを育てて、夫との仲も悪くない。しかし、彼女は、20代の頃、親への反発から繁華街でホステスをしていた。そこで知り合った、年の離れた歯科医師・久木の愛人になって、長い交際をしてきた経歴がある。その後、別れた彼女は、久木を忘れることはなかった。その久木が警察が選挙違反で逮捕されたことを知る。彼女は衝撃を受け、夫を欺いて久木と旅行に行き、恋愛関係を復活させる。やがて、久木は彼女の夫に、彼女を自分の妻にしたいと談判してしまう。彼女は離婚し、久木ふたりだけの日常生活をしているところで終る。
 力作である。女性の厨房の描写で、その揺れ動く情念を表現し、成功している。巧い運びで前半は、普通の不倫小説なのかなと思わせながら、後半のところで、「私」の日常生活を描くことで、人間の愛の不条理の詰め寄っている気配が感じられ、文学作品にしている。とにかく筆力がある。昔、純文学と大衆小説の間に、中間小説というジャンルがあったが、それにちかいところがある。

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2007年9月27日 (木)

同人誌「文学街」240号(東京)作品紹介など(1)

【「鬼才・村尾文の構築術」庄司肇】
「文学街」234号の別冊「村尾文自選短編小説集」に掲載された作品を評論している。筆者の書く立場から、その筆力を高く評価し、疑問点も鋭く指摘する。村尾作品を良く知らない自分だが、もう一度読み返したくなるような魅力のある力強い評論であった。
【「観覧車とビスケ」土井荘平】
 古希を過ぎた佑介が、若い頃に過ごした法善寺横町のあたりの風景を夢ともうつうともなく頭に浮かべ、自分の姿をそこに見たりする。朦朧として心のゆらぎに身をゆだねるしかない老人の姿を描いて、説得力がある。
【「モノローグの快楽」尾関忠雄】
「独白」という行為の意味を「独白」で綴り、時おり哲学的思弁に入ったりする。非常に面白く読まされた。自己の存在の意義に触れたところなどでは、もうすこし哲学的な探究を追求して欲しい気もしたが、ユーモラスな語り口を楽しむことができる。
【「雁」川島徹】
長年、教員をしてきた高浜志郎は、教頭を務め校長になれる資格を持っていながら、転任が多く、また上司にも恵まれず校長の推薦をうけることがない。その高浜の悪戦苦闘ぶりを描いて、リアリティと説得力を持つ。教員の知られざる事務的な仕事の細部も描かれているのは読み応えがあった。自己中心的で身勝手な女性校長の姿も、よく表現されている。高浜が病に倒れ生死をさまよった末に、空に雁をみるところで終る。

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2007年9月26日 (水)

文芸時評・9月(毎日新聞)川村湊氏

《対象作品》「東浩紀+桜坂洋「キャラクター」(新潮)/桐野夏生「メタボラ」/吉田修一「悪人」/前田司郎「誰かが手を、握ってるような気がしてならない」(群像)/東直子「うさん」(文学界)/小谷野敦「童貞」(文学界)。
《注目の一冊》松浦寿輝「川の光」(中央公論新社)。(9月26日付)。

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2007年9月25日 (火)

詩作品の紹介 「せめてもの」柿添 元

 (紹介・江 素瑛)
 遺言状のように書かれた詩です。遺言とういのは、死後の「将来」について、のぞみというか、責任というか、未練というものか、改めて書き留めたものです。
 死後はもう語れないものは、生前で語り続けると、遺言にもなります。書き留めた文字、書きとめた絵画、書き留めた音符、死後に持って行けないもの。永遠に生の世を支配する「遺言」も沢山あります。
 本来、死後と生前は全く縁も故もない両世界なのに、せめて生きているとき、自分の死後の「将来」も指図したい気持ちは、世の諸君は持っていると思います。
 土に返せ、海に返せ、無になりたい、と求める作者ですけれども、/ 死人に口なしだからな / と最後は、やはり願っても叶わないかと諦めています。
               ☆
   せめてもの         柿添 元

 ぼくが死んだら/ 裸のまま/ 土葬してくれ/ 土になって/ せめてもの/ 恩返しがしたいから/ でも/ それが不可能なら/ 焼け残った骨は/ 海に捨ててくれ/ 墓など要らぬ/ 金は/ 生きるもののためにこそ/ 使われねばならぬからだ/ ぼくは/ 土になれないのなら/ 無になりたい/ それが/ せめてもの/ ぼくの望みだ/ ただし/ それさえも叶わぬのなら/ かってにしろ/ 俗に言う/ 死人に口なしだからな
              詩誌「岩礁」132号(三島市)「岩礁の会」

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2007年9月23日 (日)

報道における真実と事実

バカボンが、まだ比較的安定したサラリーマン生活をしていた頃、同僚で20年間医者にかからないという鉄人がいて、健康保険組合から表彰されていた。「すごいですね」と驚くと、「俺は知っているんだよ。君は知らないのか? 病院に行く人間は、死亡率が極端に高いという統計があることをー。だから、俺は病院に行かない」というのだ。

 このところ読売新聞の「地球読む」というシリーズで、評論家や教授が「テロ特措法」を指示する意見を述べている。それはそれで、面白いが、このような意見は、自民党新聞でやれば一番似合うような気がする。これを面白く読んでいたが、素朴な疑問がでる。「テロとの戦い」を始めて、どれだけテロがなくなったのかという事実の検証がないことだ。前提とした、事実の報道がない。これらの有識者の意見は、彼らが真実だと思っていることをのべているに過ぎない。事実は検証可能だが、真実は人によって異なるので、多様である。まして、メディアが「真実を伝える」主張するのを目にすると笑いたくなる。お前の勘違いで信じている「真実」なんて聞きたくないよ、と思ってしまうバカボンなのだ。メディアは事実だけが報道できる。しかし、その事実を報道しないで、真実を報道したがるのは困ったものだ。
 9.・11テロで、5000人とも言われる命が奪われたが、その後アメリカは国民をテロから守るといって、アフガン・イラク戦争で、それ以上の自国民兵士の命とアフガン・イラク人の命を失っている。もし、国民の命を守るイラク戦争をしなかったら、もっと多くの人が死んだというのだろうか。誰も死なないで済んだのではないのか? 

 ついでに、メディアで評論家が主張する「米との安保条約があるから日本が安全だ」、「軍隊は国民を守る」信じて疑わないようだ。ミサイル攻撃を日本が受けて、防ぐ方法があるのか? そんなことは、ないのでは? それどころか、復讐に立ち向かって、また自国の国民兵士と相手国の国民を死なせるだけではないのか? 軍隊の兵隊は国民でないという前提がないかぎり、軍隊が国民をまもるという論理は、間違っているのでないだろうか。三連休の居眠りバカボンの寝言である。

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2007年9月22日 (土)

伊藤桂一師を囲んで作品評をきくことなど

もう2ヶ月ほど前のことだが、同人誌「グループ桂」56号の合評会が秋葉原の区民会館で開催。自分はこのところ作品を発表していないが、参加した。56号の巻頭に、伊藤桂一師の詩「蒲郡風景」が掲載されている。「終戦直後の印象」という(注)があるが、引揚兵の視点で、連合軍に占領された海辺の風景を視るのである。「波マデガ死ンデイルノダ」というフレーズがその心境を示す。

作品評では宇田本次郎「喫茶店『バチスタ』」について、伊藤桂一師は「文章の華麗さ、巧さでは、随一のものがある。その持ち味は発揮されているが、今回は、時々空まわりするところがあり、前作ほどよい出来とはいえない」と語る。物語は、喫茶店の『バチスタ』に出入りする人々の人柄を描きながら、その人生模様をしにじみと語るもので、『バチスタ』とは、映画「天井桟敷の人々」のなかの女性の名だそうである。自分も独自の感性をもった宇田ワールドの作品だが、自分ならこうは書かないというシーンがいくつかあったとした。他のひとたちも、説得力の面で成功しているとはいえない、という意見が多かった。
しかし、宇田さんは、そういうような評価、受取り方をされても、自分では、それなりに思うところを書いたという快心の思いがある、と述べた。この気持ちには、おおいに共感するものがあった。さらに、「本当は、もっと長いものであったのを、同人誌であるので、削りに削ったところがあり、意味が取り難くなったかもしれない」とも語る。たしかに、同人誌は費用や、他の作品とのバランス上、長く書けないということは少なくない。印刷をせず原稿段階の作品を読み合うことも、重要なのではないか。

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2007年9月21日 (金)

「国鉄詩人」秋、07年9月号より

国鉄詩人243号は、国鉄詩人連盟第62回大会報告と、追悼・松田軍造となっており、先号に続いて、2月に亡くなった詩人・岡亮太郎(鈴木茂正氏)の追悼文もある。岡氏は労働運動詩の強力な牽引車であったらしく、今後の運営をどうするか、大会での会議の内容が詳細に記されている。表紙に萩原朔太郎の撮影した馬込付近の線路を歩く写真が、洒落ていた。そのなかで、運営者が高齢化し健康の衰えで、会の継続が困難に直面している状況がよくわかる。現在の編集担当の矢野俊彦氏は、同人誌「砂」の運営委員もしており、文学好きで献身的な人が不足し、いろいろ兼任している様子には、考えさせられるものがある。同誌には、藤井均さんの中部の詩誌「あららと」41号で廃刊のご挨拶が、載っている。

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2007年9月18日 (火)

詩の紹介  「踏む」原かずみ

              (紹介者・江 素瑛)
 遠い昔の記憶を辿りながら、現在を織り込んだ作品です。蒸気関車の線路か電車の線路か、どの時代でも、どの場所でも、見渡り限りなく延びていく線路、線路わきの風景は必ず子供が居ます。
 燦燦な日照り、亡き祖父の棺の形に似ている、線路わきの杭の黒い影、跳びはねて遊ぶ少女。白と黒の対照的不気味がありながら、登下校の可愛い少女がそこを歩いています。少女の影は杭の影に重なって、儚い人生を暗示するかのような映像です。

               「踏む」        原かずみ 

   線路わきの一本の道/ 初夏の陽射しに晒されて/ 土埃の道は/ 水を飲みたいほどに/ 干上がっている

 ランドセルと背中の間に/ びっしりと汗をためながら/ 少女は道にさしかかる/
 白く照りかえす道に/ 線路わきに佇つ杭の影が/ 鉛を流し込んだように/ くっきりと地面に落ちている

 等間隔で並ぶ黒い影/ 枕木の先端を尖らせた杭の影は/ 春に送り出した/ 祖父の棺の形に似ている/ 少女は/ 道に横たわる棺を/ ひとつひとつ踏んで歩く/ 跳ねていく少女の影が/ 杭の影に重なって/ ゆらりとくねる/ 足元から立ち上がってくる/ ざわりとしたなまなましい感覚 /少女が踏むたびに/ 次々と地面に開いていく/ 鈴なりのまぶた

   祖父のアルバムを見返しながら/ 遥か遠くで/ 水晶のように光っている道をたぐりよせる/ 白い陽射しと黒い影/ 燃え上がらんばかりのコントラストが/ もう若くはない私の眼球をやく/ あの頃の少女も 今にたぐりよせる/ 暗く翳る私の胸を/ 小さなゴム靴が軽やかに弾んで/ 踏んでいく
                    詩誌「まひる」3号より (あきる野市)

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2007年9月17日 (月)

国際柔道試合大会を見る

敬老の日である。テレビで、柔ちゃんやその他の試合を見る。またボケボンの見方だが、選手は、やたらと相手の顔を引っかいている。中には、目に指をいれてしまうような場面が見られた。見ていると、どうも、柔道着を掴まれたくないため、そうなるらしい。それなら、柔道着を着ない方がいいのではないか。柔道着があってまずいような競技――あれは柔道ではない。奇妙なルールのレスリングである。あれを世界の人が柔道と思わせるのは間違いを呼ぶ。審判も柔道がどんなものであるか知っているようではない。
 そういう国際大会があるのは、べつにかまわないが、日本国内は正しい講道館柔道を継承した、本当の柔道大会を独自に維持し、姿三四郎の伝統を守るべきだ。国際的な視点でも、美学面でも、洗練された伝統文化のないものは、魅力を失っていくだけだ。

国際柔道大会で感心したのは、出場者の国が、いろいろあったことだ。なにしろ、イラク・テロ特措法では、国際社会というと、米英の二国のことらしいから、またアメリカとイギリスの選手しか出ないのかと思ったものだ。,

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2007年9月16日 (日)

「文芸同人誌評」「週刊読書人」07年9月21日担当・白川正芳氏

《対象作品》「ヒロシマにつながる話」右遠俊郎(「民主文学」8月号)、「傾聴猫又日記」平野佳美(著書/けやき出版)、「豊かな社会の幽霊たち」岩下準平(「イミタチオ」47号)、「島尾ミホ先生を偲んで」鳥居真知子、「同人 島尾ミホさんの葬送」寺内邦夫(「タクラマカン」41号)、「青い火」木下径子(「街道」11号)、「出版顚末記 甲斐の国からお四国へ」高田恭子(「ペン」2号)、「手紙」北山修子(「あてのき」32号)、「中日文化賞余聞」清水信(「北斗」7・8月合併号)。(「文芸同人誌案内・掲示板」よこいさんまとめ、より)

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2007年9月15日 (土)

詩作品の紹介 「ケイタイ日記」あんの じゅん 

(紹介= 江 素瑛)

 後ろを振り返りしない長女と、過去を思い出箱から出そうとした親を、面白く書かれています。互いの一生は重なる部分もあるけれども、前向きだけを歩く長女を、後ろ見しながら歩く親が追いつくことなく、距離は大きくなるばかり。
 吾が子が成長するほど、離れて行く必然性を、親は目で見て嘆きしかありません。
 <永遠につけ続けられるものじゃぁないんだね>ー永遠に残れるものはない、それは世の絶えず生滅ではありませんか。
  <ボタンひとつで自分の数ヶ月を消去した>--消去したのは、長女の自分だけではなく、親の思いでも入っています。

      
 ケイタイ日記       あんの じゅん

「ケイタイに日記つけてたんだけど/  けっこうがんばってつけてたんだ/ でもね/ <日記フォルダがいっぱいです>って表示が出たの/ 永遠につけ続けられるものじゃぁないんだね/ だから/ 全部消しちゃったよ/ そう 全部/ だって もう面倒になっちゃったし」

十四歳の長女は/ あっさりと/ ボタンひとつで自分の数ヶ月を消去した 
 
  「一つ残らず私の分身」と/ 消去できないデータフォルダで溢れ返る/ 私のパソコン/ ひとつひとつ開かなければ/ 中身も思い出せないのに

 過ぎ去った日々の文字の羅列を/ 綺麗さっぱり払い落とし/ パタン/ ケイタイを閉じると/ 長女は私を振り返りもしないで/ 薄い光りの射す方へ歩き始めた
  
                         (詩誌「まひる」3号より アサの会 あきる野市)

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2007年9月14日 (金)

「同人誌時評」「図書新聞」07年9月15日、担当・福田信夫氏

《対象作品》「過日」上坂高生、「出立」永井孝史(以上「碑」88号/横浜市)、「ガラス玉遊戯」諸井学、「ヘルメットたちの矜持」大塚誉(以上「播火」64号/姫路市)、「八月のゆくえ」岸田淳子(「ルーチェ」創刊号/四日市市)、「はなびらのような―『原爆忌』を読む、詠む」杉山久子(「石榴」8号/広島市)、「もう一つの二十世紀―イスラーム世界が見たもの―第二章第一次世界大戦とイスラーム世界(ニ)アラブの反乱2」中島公子、「昔話の食卓(10)―漁師とその妻―」数藤ゆきえ(以上「竪琴」号数記載なし/調布市)、「思い出すことなど」渋沢晴子、「招待席(19)赤不動から熊野へ」宮本徳蔵(以上「ティルス」(酒神の杖)22号/新宿区)、「中山義秀『故里の土』について」磐瀬清雄、「昭和を生きる(仮題)―序―」林順、「走馬燈、廻れ廻れ(五)―友谷静栄と林芙美子―」宇治土公三津子、「中野重治と芥川龍之介―『僕の瑞威から』をめぐって」木村幸雄、「『むらぎも』断感―『米配給は残るか』『広重』との関連で(一)―」(以上「駱駝」51号/練馬区)、船方一没後50年特集=神谷量平、栗原治人、高橋一仁(「京浜文学」10号/横浜市)、「五校の文学第一」特集=首藤基澄、古閑章、村田秀明、村田由美、道園達也(「方位」25号/熊本市) 。(「文芸同人誌案内・掲示板」よこいさんまとめ、より)

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2007年9月13日 (木)

詩作品紹介  「さくら」井手 ひとみ=(紹介・江 素瑛)

 風を感じていたかったー内心に潜んでいた夢が、軽快な筆触で、展開しました。そこで横に現れたのは、格好いい男でした。信号を待っている間に、想像力が働きました。
 しかし、男が弁当のカラを踏んだ、一瞬、想像が現実に変わりました。
 踏み潰された沢山の夢々が人の一生をどれだけの潤いを与えられたのか、どれぐらい人を成熟させたのか。
☆掲載・詩誌「さちや」No.136(岐阜市)より

「さくら」   井手ひとみ
風を感じていたかった/ 道を渡る男の白髪まじりの髪が/ 風になびく/ なんの関係もないひとだけれど/ 桜が散るこんな朝/ ひととき 鼻の高い横顔を/ 見つめていていいだろう                                  

信号が青に変わる/ 男はさっさと先を歩いていく/ 年齢の割りに足の長い男だが/ 肩先が少し右にずれている

道を渡りきると/ 男は弁当のカラを踏みながら/ 左に回った/ 私はまっすぐ歩いた/ あんなに見つめていたのに/ もう私には/ 何かが起きる気配もなかった/ 何かが始まる気配もなかった/ 箸袋が桜の吹き溜まりの中で/ くるくる回っている              

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2007年9月12日 (水)

個人誌「猟」第2号(東京都八王子市)

【「退屈な旅」乾夏生】
この中篇小説ひとつの個人誌である。ごく普通の家庭の次男坊で、工業高校にいたが、化学実験の失敗で友人が怪我をしてしまう。友人の自らしたことであるが、実験仲間であった主人公は、自分の責任でないことを強調する発言をしてしまう。自分の発言で自分自身が傷つく性格がここでよく表現されている。少年の孤独な精神をていねい描いている。
 その感受性のゆえに高校を中退、エレクトロニクスの測定器をつくる町工場に住み込みで勤めるが、自らの存在の自信のなさ、社会的な順応性の不足から、上司を殴る結果になり退職するまでの話。時代を示していない、測定器のキャビネットを筐体などと表現しているところや、測定器製造の職場の様子から、1960年代~1970年代の高度経済成長期の話であろう。仕事の内容が事細かく書いてあるのが良い。時代を書かないことで、青春前期の少年の孤独な精神を昔話から切り離して浮き上がらせた効果はある。そのぶん、物語性が(なくてもいいのだが)欠ける弱さが出る。ただ、自分には、非常に面白く共感できた。
 編集後記に、遠藤明子さんの「槐」に所属していたという。遠藤さんには同人誌「文学街」の集いでお会いしている、と思ったら、お会いしたのは、遠野美地子さん(電話をくれた)ので、別人とわかった。
 自分も、18歳から約3年ほど、測定器の組立職人をしていた。その後、夜間大学を受験。職人がなんで「学士」になるのだ?といわれたものだ。無断欠勤をしたことで、そこをクビになり、アルバイトを転々としながら通学した。高度成長期で、仕事に困ることはなく、しかも夜は勉強できる。嬉しかった。マンモス大学で、教授の講義を聴いていて、時代は自分の味方だと思ったことなどを思い出す。もっと、元気だったような気がするが、これを読むと、孤独であったことは確かで、それも空元気だったかもしれないと思った。

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2007年9月11日 (火)

嶽本のばら大麻所持逮捕の波紋

嶽本のばらさんが9月2日、大麻所持の現行犯で逮捕された事件で、雑誌「野性時代」(角川書店)10月号と「きらら」(小学館)10月号は、変更不可能で、小説やエッセイをそのまま掲載。季刊誌「yom Yom」(新潮社)では、27日発売の第4号で掲載予定だった連作短編の見送りを決定。7日にエッセー集「アラジンと魔法のお買い物」を発売したメディアファクトリーでは、15日と17日に予定されていたサイン会を中止した。野性時代は、可能ならば連載を継続したいがーーとし、そのほか、執筆再開は難しいという見方も。(読売新聞9月11日付)。

こういう無頼的なワル作家のレッテルのついた場合は、現在は難しいが、刑務所にいて本を出す例は、国内外にあるので、刑罰が確定すれば、再登場できるかも知れない。作家になるのは、ちょっと変わったところが個性とされるので、その方向が反社会的なることもある。

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2007年9月10日 (月)

台風9号の後、水没の家も自販機も復興?多摩川大橋周辺=東京・大田区

台風9号の後、水没の家も自販機も復興?多摩川大橋周辺=東京・大田区

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「文學界」7年10月号「同人雑誌評」担当・松本道介氏

《対象作品》「倩女離魂」高安修蔵、「星の名前」本間真琴(以上「河」140号/東京都)、「白線の上をお歩きください」小澤麻梨子(「法政文芸」3号/東京都)、「真鶴をめぐる随想」松本鶴雄(「修羅」55号/桶川市)、「『晴れた二人の縞模様』私見」山本和子(「とぽす」43号/茨木市)、「過ぎゆく日々の向うで」中嶋英二(「江南文学」54号/流山市)、「白鷺」しん・りゅうう(「山形文学」93集/山形市)、「まつりのあと」芦原瑞祥、「残火」阪井智一(以上「カム」創刊号/桜井市)、「逃げるばかり」岡山和男、「編集者・石井立」粂正義(以上「七十代」13号/東京都)、「菜の花ほどの」吉田典子(「森林鉄道」23号/函館市)、「徳田秋声と吉屋信子」森英一(「イミタチオ」47号/金沢市)、「雁渡し」武田民子(「たまゆら」67号/東近江市)、「見返り鹿」秋月ひろ子(「小説家」125号/国分寺市)、「雌花」中島妙子(「安藝文學」75号/広島市)、「蛍の家」榎本武男(「月水金」31号/横浜市)、「馬を見に」田村加寿子(「かいだん」56号/小金井市)、「冬の虹」平沢ゆうこ(「文藝岩手」46号/盛岡市)、「八月のゆくえ」岸田淳子(「ルーチェ」創刊号/四日市市)、「遠い タブー」井筒みき(「茜」23号/横浜市)、「こどもの一分」野上周(「YPSILON」17号/三島市)
ベスト5は、「過ぎゆく日々の向うで」中嶋英二、「倩女離魂」高安修蔵、「馬を見に」田村加寿子、「菜の花ほどの」吉田典子、「遠い タブー」井筒みき。(「文芸同人誌案内・掲示板」よこいさんまとめより)

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2007年9月 9日 (日)

台風9号の後、多摩川ホームレス小屋の再建が始まる

台風9号の後、多摩川ホームレス小屋の再建が始まる=東京・大田区

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2007年9月 8日 (土)

台風9号と多摩川河川敷のホームレスたち

台風9号で、多摩川の河川敷が濁流にのまれている。

多摩川河川敷の水没必然地域の予見が言的中。昨年暮れから今年のはじめに見たホームレス?のマイホームがすべて水没してしまった。参考=風流な六郷川のリバーサイド
ハウス。

自由への希求と生々流転の生活は紙一重なのかもしれない。

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2007年9月 6日 (木)

同人誌「奏」14号2007夏(静岡市)

【「春、浅く」小森新】
ドイツ文学の影響を受けた槲木という詩人青年が、若くして交通事故死する。その青年と友情をもって交際していた後輩が、詩人青年の恋人らしき女性に、交流の過程を、手紙にして語るという構成。ちょっと堀辰雄を思わせるような文体で、文学的雰囲気があって、楽しめる。槲木青年の自らの詩才への疑問や、生活と詩精神の齟齬など、いまの人はあまり深く考えないような問題意識を盛り込んであるのが、内容を引き立てている。そして、終章で、槲木青年の交通事故死が、懊悩の末の自死ではないかと思い巡らすとこで終る。ゲーテ、リルケ、カロッサなどが組み込まれているが、ゲーテならゲーテ、リルケならリルケと傾倒するものを限定したほうが良かったのでは、なにを追求して悩んでいたのか、散漫でわからないのが結局、青春文学として作品を甘くしている。
【「芹沢光治良『塩壷』論」勝呂奏】
芹沢光治良については良く知らない。ただ、三木清全集(岩波)に文芸時評をしたのを収録していて、そこで有望な若手作家のなか芹沢の名を挙げていたのを覚えていて、長寿な作家としか頭になかった。この評論を読んで、当時なぜ三木清が取り上げたのかが推察でき、興味深かった。彼の作品専門の読書の会があるのも知らなかった。宗教的色彩の強い作家なのだろうか。
【「森内俊雄『短編歳時記』ノート」勝呂奏】
作品のなかに宗教的な幻視を取り入れる作家という印象のある森内俊雄であるが、俳句に関心があるとは、知らなかった。知らないことばかりで、これも面白かった。
「奏」発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、発行人=勝呂奏。

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2007年9月 5日 (水)

同人誌「安藝文学」第75号(広島市)

【随筆「墓碑銘」望月雅子】
江藤淳「漱石とその時代」、田宮虎彦「愛のかたみ」、原口統三「二十歳のエチュード」、清岡卓行「『海の瞳』-原口統三を求めて」。これらの作者と対象作品を、それぞれの死に方を検証しながら、評論をする。常に師と向き合った姿勢が、緊張感をもって、読ませる。
【随筆「丹下左膳」山本明美】
林不亡の「丹下左膳」の「乾雲坤竜」の巻と「こけ猿」との筆致の違いを、大河内伝次郎の映画との印象を交えて、評論する。懐かしくも、娯楽の中に哀愁のあった時代を思い出す。
【「日本語の空間」(六)文沢隆一】平安時代の竹取物語から、源氏物語、伊勢物語の特長を、わかりやすく例を上げて解説している。まるで大学の授業の教科書かとおもうほど、興味をそそって解説されており、本当に面白く勉強になった。
安藝文学同人会事務局=〒732-0002広島市東区戸坂山根2-10-25.

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2007年9月 4日 (火)

小泉今日子の書評・江国香織「がらくた」(新潮社)

「自分が自分であることを確かめられるものはなんにもないのかもしれない。そんなことを考えて少し不安になった。自分の体に思い切り鼻を押し付けて、その匂いを嗅いで確かめたくなるような小説だった」。「世代の違う3人の女たちが海外のリゾートホテルで出会う。45歳の柊子。その母親で74歳の桐子さん、そして15歳の美海。柊子は毎朝海辺で見掛ける美海に興味を抱く。その理由を桐子さんはこう分析する。<子供と大人の中間で、あんたが失ったものと手に入れたものを両方持っていて。いましかないっていう種類の生命力があるから>。その一過性の輝きは、過ぎてしまった者にとって、すごく眩しい光なのだろう。私は柊子と同じように、美海がヘッドホンで聴いている音楽が何なのか知りたくなったし、彼女が口にしたピーター・スピアという作家の本を読んでみたくなった。彼女のことを知ることで、失ってしまったなにかを取り戻せるような気がしてしまう。」と書く。(読売新聞9月2日付)

金剛経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」というものがあるが、これは、平凡な、これといって輝かない日常から、脱出しようとする女心の揺らぎなんでしょうか。毎日が輝かないといけないという決まりはないのだが・・。

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2007年9月 2日 (日)

文芸時評・8月=沼野充義(毎日新聞)

《対象作品》松浦寿輝「川の光」(読売新聞)/円城塔「Boy‘s Surface」(S-Fマガジ)9月号)/津村記久子「カソウスキの行方」(群像)/宮崎誉子「欠落」(新潮)/SF特集(「文学」7・8月号、岩波書店)/吉田健一没後20年特集(文学界)/受賞記念対談=諏訪哲史&谷川渥(群像)。

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