文芸時評・9月(読売新聞)山内則史記者(1)
《対象作品》大江健三郎氏(72)今月完結臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」(新潮)=読むことと書くことの往復の中から構想されたと思われる作品。松山高校時代から愛読する日夏耿之介(ひなつこうのすけ)訳『ポオ詩集』の一節があり、ナボコフ『ロリータ』との照応がある。息子の〈光〉と歩行訓練していた〈私〉は、エリオットの詩から引用した英語で声をかけられる。相手は〈木守 有(こもりたもつ)〉。駒場の大学で知り合い、後に国際的な映画プロデューサーとなった彼は、女優の〈サクラさん〉を主演にドイツの作家、クライストの生誕200年記念映画を日本で撮るべくシナリオを私に依頼するが、撮影クルーのスキャンダルで計画は頓挫する。以来30年ぶりに現れた木守の目的は、一度はついえたその映画の企画をやり直すこと。それによってサクラさんは、幼いころアメリカ軍人に強いられたあるものに、復讐(ふくしゅう)しようとしている。『取り替え子』『憂い顔の童子』『さようなら、私の本よ!』と続いた三部作と作品世界は地続きの印象で、木守と私は大江作品になじみの「おかしな二人組」にも見えるが、明らかに存在を際立たせているのはサクラさん。三部作に流れていた老人の愚行と憤りの熱はやや後退し、サクラさんを苦しめていたものと、それに端を発した精神の失調、私の故郷、四国の森に残る歴史と伝説を結んでの生の回復が、結末の希望へと開かれていく。『「雨の木」を聴く女たち』にも通じる、切なくもおおらかな読後感は、女性を描いたことから来ているかも知れない。三部作を経て氏の「後期の作品(レイト・ワーク)」が、次の局面に移ったことを感じさせる一作だ。
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