日本ペンクラブの会長に阿刀田高さん
日本ペンクラブ会長は井上ひさしさん(72)から阿刀田さん(72)にバトンタッチ。任期は2年。穂高健一さんの記事より。
(「文芸同人誌案内」掲示板よこいさんのまとめから)2007年上半期同人雑誌優秀作=「電車ともだち」奥野忠昭(「せる」74号)、奨励作=「ひとりきり」鷹宮さより(「雲」3月号)、同「マチコさん」(「野火」23号)
鷹宮さよりさんは、かつて高宮さよりの名で「キャベツハウス」が「季刊 文科」に転載された方です。なお、この他に候補に挙がったのは、「風景―金魚」山口馨(「渤海」53号)でした。
《対象作品》「電車ともだち」奥野忠昭(「せる」74号)、「ひとりきり」鷹宮さより(「雲」3月号)、「幸せな群島」(「VIKING」同人・竹内和夫著作本)、「ヌブーさんの舞踏会」菅原治子、「夏の終わりに」野中麻世、「天・地・人」福島弘子、「ナターシャのために」秋本喜久子、「殺したい相手」淘山竜子(以上「婦人文芸」83・84号創刊五十周年記念特集/東京都)「人間依存症」吉田啓子(「勢陽」19号/伊勢市)、「隣人の影」田ノ上淑子(「原色派」休刊中)、「たそがれの白い山茶花」竹宮よしみ(「アミーゴ」57号/松山市)、「水晶体を繕う」鈴木重生、「雨あがり」類ちゑ子、「眠り子草」刺賀秀子、「帰ってこない夜明け」関谷雄孝(以上「小説家」124号/国分寺市)、「智子」青山伸子、「ほどけばもとの」小川悦子、「『エトランジェ』―佐伯祐三の妻『米子』」稲葉有、「夢見たものは……(2)―立原道造晩景―」小山榮雅、「有楽町で」石毛春人(以上「新現実」18号/東京都)、「春よ、来い」てらしせいたろう、「昭和は遠く」吉村滋(以上「詩と眞實」694号/熊本市)、「田久保君の上京」&「身辺雑記」成清良孝、「墨色の記憶」伊藤文隆、「師・小島信夫のこと」山本孝夫、「秋風来」新原澄江、「文学散歩旅行私記」高杉勲(以上「四人」79号/東京都)、「追悼、宮崎宏」&「業務命令」金田清志、「孵化の条件」宮崎宏、「ダウンライトの追憶」藤野茂樹、「ネオン川」石原憲一、「羽おと」上村理慧、「サンダル」名取二三江(以上「文学横浜」37号/横須賀市)、「繭子」各務麗至(個人誌「戞戞」18号/観音寺市)、「雪庇埋没」杉本増生(「ベルク」100号/町田市)、「遠藤文学のテーマとその独自性」久保田暁一(「滋賀作家」百号記念特集号/大津市)、「犬のゆくさき」むとう都真子、「オウレたちテロは年貢の納めどき」高橋亮、「引退興行」野坂喜美、「フォレストナイト」山中千秋、「今夜の月は、うれしいね」塩見佐恵子(以上「米子文学」51号)、「限界村」小西九嶺、「この世の客」高畠寛(「あるかいど」34号/大阪市)、「天上に立つ前に」秋乃みか(「じゅん文学」51号/名古屋市)、「放浪の町」(「とろっこ」同人・中井眞耶著作本)、「水のざわめき」原木重純(「ドン」60号/国立市)、「傍観者」(「ドン」同人・原木重純著作本)
べスト5は、「電車ともだち」奥野忠昭、「ひとりきり」鷹宮さより、「人間依存症」吉田啓子、「たそがれの白い山茶花」竹宮よしみ、「天・地・人」福島弘子
なお、第24回大阪女性文芸賞「連結コイル」海東セラ、先般ここでも話題になった日経新聞にも触れています。
紹介者 江 素瑛
命の戟-悲しい民族の歌ふ
5 死に臨む
機械と油と原料の匂にうずもれて/虫けらのやうに男や女が動いている中で/お前はお前の生長した姿を見る
頼もしい若者よ/お前を育てたのは父や母ではなく 天皇陛下の御稜威!である/国は戦争で膨脹し 人も物も統制されて/厳格なる規律/死にゆく思想/遠大なる政策/お前の頭脳は無意味に<非常時>で忙殺される
台湾人の皇民化運動とは/日本人の真似を徹底せしめることだ/お前は知恵のない子犬らしい活発さで/日本人そのものの如く振る舞ひ/栄譽ある兵隊の地位を遂に特別「志願」させられる/そして歓呼の声がお前を死の湖へ送り出す/そこに如何なる謀略があらうとも お前は勇敢だ
お前はすっかり日本人気取りで/バシー海峡を渡って南の国を闊歩する/悲しい民族の苦悩は死によって消ゆるべし/正に死に臨み 一群の野蕃な兵隊と共に/泥に寝て 草を噛み 撓みない労苦に甘んじ/原始の花を摘む/お前はすべてを忘れ/全く賢い愚人になる
日本は神の国だ 勝つて負けることなし/強い自負と誇張と 御稜威の光に流れ 流れ流れて/一九四五年八月十五日/悲しい民族の命は闇の中に輝かしく/降伏して 光復する?/死はお前を見捨てたのだ
紹介者 江 素瑛
台湾の詩人陳千武さんは、1922年生まれ。現在も台湾に住み詩作をする。1940年日本の植民地政策で、生徒の皇民化による改姓名に反対したため、1ヶ月の監禁をうける。日本語文化を学び、間もなく日本語詩集、日本語短編小説を書く。日本兵に志願するなかで日本文化の影響を受けた。日本でも著名な詩人である。
「命の戟」は1 誕生、2 幼き日、3 運命の影、4 歪んだ表情、5 死に臨む、6 名は永遠に、と六章に成す。1946-1951年に伝記の形で書かれた作品である。清国、日本、中国国民党を経て、常に外来人に統治され、継子のような台湾。とくにその時代を生き抜いた台湾老人達は、台湾人総統李登輝が誕生するまでに、悲しい目で台湾の奈落を嘆いている。
「死に臨む」は、特別志願兵にさせられた若い陳千武さんは、「全く賢い愚人になる」、と洞察したような描写が現れますが、同詩集に収録された1941-1942年に書かれた「瞳を凝らしてー大肚山にて」では、
(中略)ーー瞳を凝らして思う/麦藁の戦闘帽で/真白なハンカチのやうな/空の白い雲を掬い日をー
大肚山の山頂付近に日本軍が作った地下要塞に志願兵予備訓練を受けた陳さんは、台湾人を皇民化に企む当時、親友の中田 襄さんと、同じように栄光な戦争の夢を見たのかも知れません。
【「靄(もや)」水木怜】
気が弱く酒乱の夫に長年連れ添ってきた老妻の美佐子は、夫との荒れた時間を終えると、ひそかにテレビゲームの人生シュミレーションで夜を過ごす。屈辱にまみれた現実の人生のかわりに、意のままに夢を膨らませる事ができるゲームにひたるのである。この設定が、意外でありまた納得させる。そんな生活の中で、ただ1人の友人、松代との交際のなかで、自分が物忘れがひどく、病的段階である事を知らされる。美佐子が、自分が痴呆に入りかけていながら、それを否定する気持ちに切迫感がある。その後、痴呆がすすむ過程が美佐子の視点で描かれる。これも破綻がない。人生のパターンのうちでも底の部分で生きた美佐子の末期までが語れるが、死にかけた美佐子に暴力亭主が心配して声かけるところが、胸を打つ。美佐子のような人生がそれでも、ひとつの立派な人生の形であることを示しているように読めた。
最近は、情報が発達して、巨大な富を築いた人や贅沢な洒落た生活ぶりがTVや雑誌で紹介される。いわゆる成功者の姿だが、見ていて何かゲームの世界の人のように見える。そして、現実は朝日が昇り、日にあたり、雨に傘をさしぬれた緑を見る。粗末でも飯とお茶があれば人生がすごせるのである。セカンドライフというゲームのネット遊びがあるそうだが、まさにこの小説の美佐子の浸った世界である。そういう意味で、この作品は奥が深い。
「鳴らない電話」では、短いせいか技巧力が目立ったが、これは内容と技巧が伴って、作者の力が充分発揮されている。
【「美しき天然 進めよ乙女」桑島まさき】
2卵性双生児の姉の方の少女時代の記録。清楚で純情を絵に描いたような少女時代がこと細かく日誌的に描かれている。萌えの雰囲気が満ち満ちており、マニアには想像力を掻き立てるかもしれない。作者はそれを計算しているような感じでもある。自己表現的に無菌状態を描きこれから小説がはじまる段階に思える。
【「流れのままに」逆井三三】上杉謙信なきあとの藩体制維持にからむ歴史小説。藩主・上定勝の家老・長尾忠重は、定勝が亡き後、当時流行っていた、殉死する立場にあった。定勝は藩主として、特別な手腕があったわけでもなく、長尾は好きでもきらいでもなかった、という設定が面白い。世間の視線をおもんばかって腹を切る馬鹿らしさを長尾の視点から描く。いろいろ不満を感じながら、長尾は腹を切って殉死してみせる。見事に腹を切って世間的な喝采を期待する例や、腹を切らずに悪評うける例も示して、面白い読物であった。
《余談》話は飛ぶが、同人誌「季刊遠近」の合評会に、出席させてもらったことがある。6年位前である。ちょうど情報紙「文芸研究月報」を発行して間もない頃で、遠隔地にいる会員から東京の同人誌には、どんなものがあってどんな風にしているのか、知りたいという問い合わせがあった。当時から、「砂」という同人に所属していた。この会は、出入り自由ではあったが、他の同人誌との交流がまったくない会である。そこで、他の同人誌はどうなのか、「季刊文科」に掲載されていた同人誌広告を頼りに出向いていった。そのときに難波田さんと知り合った。他の会員のひとから、同人誌は交換しているから沢山入手できている」と伺い、「サンゾー書評」存在を知ったのである。そうして得た知識を、月報に反映し、連絡先も載せた。そのためかどうかはわからないが、かなり遠隔地の人から入会したいという手紙がきたそうである。
【「異郷」藤野秀樹】
50代の「わたし」は、広島に在住の80代の両親のことが心配になり、故郷に帰ってみる。すると時代を経た故郷は、すっかり様変わりをして異郷のようになってしまっている。原爆被爆から、再開発建設による時代の変化を身にしみて感じさせる。両親の目を通してみる風景が茫洋としており、過去と現在の周囲の人々が渾然としている。穏やかな筆致で両親がたどってきた時間の中に、我々が失ったものがすべて含まれていること提示する。現代人のもつ喪失感と詠嘆を、散文で表現して行き届いている。
【「恋のいたずら」の木よしみ】故郷にいた、幼友達の尚子が30代の若さで亡くなる。主人公は別の幼馴染が好きだったが、その人はすでに結婚しており、失恋した主人公はいまだに独身である。尚子の葬儀のため帰郷すると、尚子から主人公への恋情を記した手紙を渡される。表現の手法的にみると、作者のテーマに対する表現の動機がそれほど強くなく、さらっと書き上げるつもりだったと思われる。しかし、流れが重い描き方をしたために、作者が疲れてしまって、話を早々と切り上げた節が見られる。意図と手法の食い違いはよくある。
【「鳴らない電話」水木怜】
妻子ある男の愛人となった女性の独白体小説。女性特有の側面的な視線を生かしたミステリー風の物語。語りの思い入れに引き込まれて面白く読める。自分勝手な男の言い分が、類型的だが生きている。モテてる男は自分勝手に振舞うところにコツがあるらしい。いまさら勉強しても仕方がないが、そうか、と思わされる。
【「冷たい水」坪倉亜矢】
ホームヘルパーをしている葉子は、仕事が空いたときに、病院への派遣の仕事を引き受ける。そこで、病院で働く人々の知られざる事情と内情を働きながら知る。その仕事が詳しくレポートされる。普通は、患者としての病院を知ることは多いが、働いて支える側のことは一部しかわからない。裏方の仕事の詳細を描きながら文芸作品にしている。働く人々の描写、とくに仕事ぶりと性格をうまく関連させているため、生き生きと表現されているからだ。介護する側から見た患者への感情も、生と死の隙間の挟まった存在感を簡潔に表現している。
同人誌に描かれてきた介護関連作品というものは、6年前に自分が月報で紹介してきた事例からすると、最初のこの題材にふれた小説は、親の残す遺産をめぐる子供達のエゴイズムの物語になっていて、介護の実態は附けたりのような、観念的なものであった。それから1~2年すると、医学的な知識を盛り込んだ介護関連小説の人生回顧的なものに出会うようになった。現象がリアル把握されてくる。実体験により作品化することが多くなったのであろう。そして、この作品では、介護者の分野に題材を広がってきていることが示されている。
引きこもりを題材にした小説もそうだが、社会の現状を把握し小説に表現するには、現実から少し後になってからになるようだ(プロの時流作家とそこが異なる)。社会的な変化を客観的に把握するには、ある時間が必要なのだ。人間の認識力がそういうものだとすると、物事の早い対応には、拙速が付き纏うというリスクを抱えることになるのかもしれない。
【「羽ならし」垂水薫】
95歳のおばあさんと暮らす69歳の嫁・文枝が語り手。そこに孫で学校にいけなくなって家にいる玲奈がやってくる。ほかにも孫はいるが、地味な生活をする老人の家にやってくるのは玲奈だけだ。方言、生活の様子、親戚関係のエピソードなどを挟みながら、玲奈が真の肉親愛に触れ、癒され立直る様子を予感させるまでを描く。
「羽ならし」とは、飛び立つ前のことを示すのであろう。実際、動物の脱皮や、鳥の巣立ちは、失敗すれば命を失う一大事件なのである。人間でも生物であるから、別の社会に飛び立つのには大変なエネルギーがいる。それを自覚しない人が増えたようだ。この作品は、不登校の問題を地に足をつけた視点で描く。エピソードの具体的なところもよく、整ったリアルさのが創られている。事実とは限らないが、仕組みに無理がない。人間、中身は甘えんぼ精神が巣食っている。甘い姿勢も必要だと思わせる。最終章には感動して涙が出そうになった。年のせいか。
【「犬猫メディアリーク」北川佑】
67歳の幻太郎は、まだ高校の非常勤講師をしなければ生活ができない。学校では生徒からも教師からもポンコツ扱いである。猫を飼っているが、この猫が人の意識というか脳細胞にはいって、幻太郎と人間的な会話をすることができる。その脳内世界には、教養のある女性なども進入できる余地があって、猫に媒介された幻太郎はそこでめぐり合ったある女性と気が合い、精神的交流を深めることができた。しかし、その精神的な親愛を肉体の交流でさらに高めるということが出来ない。しかし、彼女の能力支援によって、幻太郎は授業能力が向上し、存在が認められるようになる。面白いとろが多い。とくに、授業風景や脳内デートなど風刺的意味も籠められて興味をそそる。つながりのわるさが見られ、断片的に感じられるところもある。
【「龍の舌」十河順一郎】
1960年代、安保闘争の学生運動で騒然としていた時期の物語。まず、「俺」という主人公がニヒリストであることを語り、田舎から大学の寮生活に入って、全学連らしい活動組織に巻き込まれる。同宿人の鈴木という学生と知り合い、鈴木には、血筋では従姉でありながら、弟姉という関係の女性がいて、好きだったことがある。その後、俺は彼女と出会う。章ごとにタイトルがあって「ミニと脚」「ペシミスト」「火の記憶」「いなかもの」「寮」「娼婦」「追放」などというように、構成がきちんと考えられている。「龍の舌」というのは、主人公が天空に観る幻影のことで、これが物語全体に振りかけたスパイスの役目をしている。作風はハードボイルドミステリーのスタイルで、犯罪も出てくる。話も面白く、テンポよく読ませる力作である。純文学というより、人間存在の闇を描いた密度の高い秀作読み物という感じ。米国ホレス・マッコイの名作「廃馬を撃て」の日本版に匹敵する出来上がり。60年代の学生運動を背景にしては、自分も作品を書いたことがあるが、較べるとこの作品の方が大人びていて巧いと思った。――(関係ないか……。)
【「茶の間の柱時計」難波田節子】
小学校の校長を退職してから25年、85歳の為吉。主人公「芳子」は嫁で夫と共に暮らす。為吉は、耳が遠く、痴呆になるのを警戒して暮らす。姑はすでに亡くなっている。そこに夫の姉の亭主が泊まりに来る。医師をしているので学会の集まりで上京してきた。癖の9ある男で、芳子は苦手にしている。夫はいつも夜が遅い。早く帰るように頼んでも、自分も義兄は苦手だと芳子を助ける気配がない。泊まりにやってきた義兄と舅のやり取りを描く。一日内をそれぞれの人物像を手際よく浮き彫りにさせていて、一幕物家庭劇を観るようである。表現がおだやかで優しく、そのなかに皮肉の聞いた視線で市民生活の現状を観ているところが味わいどころ。
【「故郷物語よりー穴」木野和子】
元判事の隠居老人と妻が大きな屋敷に住んでいる。使用人の老夫婦がいたが、息子に引き取られてしまい、その後釜に70歳の坂田トヨノと40歳になる知恵遅れの娘、小百合がやってきて、主人様夫妻の面倒を見ることになる。痴呆症の元判事の妻は亡くなる。そのご小百合のお腹が膨らんできて、元判事が小百合を妻にしたいと申し出る。こうした経緯を昔物語風に描く。刺激的な題材の割には、和風菓子の風味のような味わいがある短編。メリハリがあって、作中世界に引き込む力があり、面白く読んだ。
【「眠れぬ夜のためのゾンバノール~癒しのゾンビ映画ガイド~」塚田遼+奥端秀彰】
ゾンビ映画の解説であるが、実に面白い。語り口もなめらかで、諧謔性に満ち、この種の映画の面白く見る方法を教えてくれる。映画会社から賞をもらえるのではないと思うほどの名編のような気がする。読まないと損をするかもしれない。
【「ある夢想家の手記」沢村芳樹】
Aという人間の自己の性格と意思と自己存在感を思索した短い独白体の小説。根源的な問いは重要なので、テーマとしては重いのだが、Aという人間の思考の癖があり、それを意識的に提示していないので、興味深く読めた。しかし、Aそのものの思弁に深みが足りない。たとえば「仕事は月並みなデスクワークをやってきた」と表現するが、そういうデスクワークがあるのは驚きだし、「特徴のない人生をたどってきた」という。では、特徴のある人生ってどんなであると、そうなのか、とか、浮いた思考法が面白い。存在することの意味性の獲得ができないことの独白であろうが、物事は意味性もったり喪失したりすることの反復であるから、永遠に意味のあるものを探すのは簡単ではない。
【「ねこと部屋」淘山竜子】
休息のために仕事を辞めている智子という女性が主人公で、公園で拾った猫を獣医に見せたら、引き取る破目になり、引越しまで考える。その話の間に隆明という彼氏との別れを決意することなどが盛り込まれている。らくらくと、自由に、暢気に暮らせる若い女性の生活の一風景が丹念描かれている。女性に越えるべき山も峠もないため、小説もとくにヤマ場もなく、猫の心配をして過ごす。そういう時代なのだという雰囲気を提示している。この表現が、意味を持つときがあれば、意味を持ち、意味を持たない時期には埋もれて、見出してくれる時期を待つ作風に読める。短編ではあるが、かなり枚数を使って空気を伝えている。雰囲気小説というジャンルに入るかもしれない。この作者は「婦人文芸」にも作品を発表し、大河内昭爾氏に、意味がよく理解できないという趣旨の評をされていた。解らなくとも必要とあれば推察しようと思えばできるのであって、これは表現する雰囲気に興味がないという意味に受け取れる。興味を持つ読者に出会うまで待つか、興味を持たせるように表現するかの問題ではないだろうか。
戦陣訓
地上五十尺/小高き崖上にわれ立ちて/風に繙くはーー戦陣訓
眼下に見はるかす俯瞰の景/道あり川あり民家あり/澄める空ーー和む風/そしてかぎりなき田園のひろがり
“ 信ハ力ナリ 自ラ信ジ
毅然トシテ戦フ者常に克ク勝者タリ・・・・・・ ”
声を大にして/美しき荘巌律に酔ひ/瞼とづればーー/足下に現像す野戦の景/砲塁あり鉄條綱あり兵馬あり/燃える空ーー吠える風/そしてたえまなき哨煙弾雨のひらめき
ーーやがての日/
精悍の豼貅相伍して・・・・・・・
うつつに夢みる/われの姿を
入営近し!/小高き崖上にわれ立ちて/思念は羽搏くーー戦陣訓
日本統治時代の台湾、「特別志願兵」と選定された中田さん(本名頼襄欽)、21歳、1942年に入隊を控え、純粋な青年が、想像した「美しい戦場」への情熱と憧れを綴られた詩。そこには強制的赤札の徴兵ではなく、あくまでも志願兵であることを注目すべき。終戦、中国国民党が政権交代。テイブン島から生還された中田さんは1947年、ニ・ニ八事件で乱殺された。
「若桜」は志願兵の美称である。これはこの若くても散った詩人が生前に唯一、親友である陳千武さんと、自家鋼版刻字で作った詩集である。陳さんは、台湾在住だが、その詩集が、日本の出版社から刊行されている。台湾特別志願兵として東ティモールに赴き、かの地に自らの死を隠匿し、詩人として台湾に再生するまでに16年を要した陳千武。台湾住民の生命と愛の追求、世界への呼びかけに満ちたその「陳千武詩集」は、土曜美術社出版販売から刊行。
【「異郷」藤野秀樹】
50代の「わたし」は、広島に在住の80代の両親のことが心配になり、故郷に帰ってみる。すると時代を経た故郷は、すっかり様変わりをして異郷のようになってしまっている。原爆被爆から、再開発建設による時代の変化を身にしみて感じさせる。両親の目を通してみる風景が茫洋としており、過去と現在の周囲の人々が渾然としている。穏やかな筆致で両親がたどってきた時間の中に、我々が失ったものがすべて含まれていること提示する。現代人のもつ喪失感と詠嘆を、散文で表現して行き届いている。
【「恋のいたずら」の木よしみ】故郷にいた、幼友達の尚子が30代の若さで亡くなる。主人公は別の幼馴染が好きだったが、その人はすでに結婚しており、失恋した主人公はいまだに独身である。尚子の葬儀のため帰郷すると、尚子から主人公への恋情を記した手紙を渡される。表現の手法的にみると、作者のテーマに対する表現の動機がそれほど強くなく、さらっと書き上げるつもりだったと思われる。しかし、流れが重い描き方をしたために、作者が疲れてしまって、話を早々と切り上げた節が見られる。意図と手法の食い違いはよくある。
《読売新聞5月13日付け》今回は安東みきえの童話「頭のうちどころが悪かった熊の話」(理論社)を選んだ。童話であるが、大人になって読むとまた別の意味が汲み取れる、と解説。彼女は、出来が悪かったので、叱られたことが多いという。叱られながら守られまれ、学んだと語る。
――この「よみうり堂」欄の書評は、作家、大学教授、学者、など社会的、文化的地位の高い人々が、読売新聞社に集まり気になる本をそれぞれ選んで書評をするそうである。キョンキョンが本に書いている。そして、自分が中卒であることにちょっとこだわりを見せている。ひょっこりと、折に触れこの、こだわりを意識して提示するというのは、文学的に大切で、話を広げ奥行きをもたせる効果がある。学歴があると、それができない。彼女の特権みたいなものだ。年少にして民衆の期待を背負ってしまったのだから、だらだらとした学生生活などしないで、社会貢献したのは偉い。我々の若き時代は、金の卵といわれまず労働者として社会貢献し、そのなかで自分の歩むべき道を見つけたものだ。転職はつきものであった。「わが職業の遍歴」とでも題して、この世代の人に話をさせたら新聞雑誌テーマの種はつきないであろうに。如何せん、編集者がその意味を知らない。
【「春の遁走」北原文雄】
庄一は、農家の息子だが、サラリーマンをして、定年退職している。農業をはじめてはいるものの、本格的な耕作から遠ざかっているのと、性格なのかもうひとつ、やる気が出ない。草刈機を使っていると、細長いくねくねしたものがいるので、すっかりおびえて気分を悪くしてしまう。蛇を蛇といわずに、その生物への嫌悪とこだわりを表現している。ユーモアのなかに悲鳴のような心情を盛り込んで、表現を集中させた凝った作品である。このように表現することで、近隣地域関係の濃密な交流を暗示するのか。では、この細長くくねくねとする軟体はなんであるのか? それは「農の遊び人」と評される生活者の異邦人的精神の持ち主でないとわからない「あるもの」であることなのであろうか。
【「もとの水―成山花橋『西遊日記』戯注の試み」島田陽】
阪神神戸大震災では、淡路島は直撃をうけ、その断層が保存されているのをTVニュースで見たことがある。そこにある古家が筆者の実家であるという。棟札には「文政三庚辰夏五月四日上棟」とあるという。文化財である。最近の台風被害を検証するなかで、成山花橋の日誌の資料を仔細に読み取っていく。そのなかで、仙崖の賛から「島原大変」の様子など、貴重で興味深い当時の様子をアナログ的な味のある筆致で追求をしてゆく。筆者はロシア文学の専門家であるのだろうか、ゴーゴリの「死せる魂」や「現代の英雄」のレールモントフの登場などもある。ぼんやり読み始めて、読み進むうちに目が覚めた。連載である。
「『三島由紀夫事件』控え帳」北原洋一郎」
1970年に三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊拠点に入り演説の後に割腹自殺した事件について、36年後の今、その内情を振り返る。川端康成との交流も指摘している。川端も自死しており、不思議な因縁をあらためて考えさせる。もうはや自衛隊駐屯地も再開発され、痕跡もない。同時に、自己の存在を自意識で装飾する文学も遠いものとなってきてるようだ。
【「往時片々―昭和二十二年暮れとわたし」三根一乗】
筆者の父が、新聞「淡路タイムス」にコラムを執筆していた。そのなかで、食糧営団の配給体制の不備を指摘、活動の民営化を主張、食料営団不要論を述べた。すると、連合軍最高司令部民間検閲出版演芸放送検閲局昭和二十二年十一月十八日民間検閲部出版演芸放送検閲局検閲官から出頭命令を受ける。マッカーサー司令部の指令に依る日本出版法第2条に違反するのだという。その部分とは、
三、該箇所は次の箇所にありたり こうりゃん配給と食糧営団「我々は今更らしく敗戦国日本の憲法など当てにはしない……来たらん日には吾人は吾人自らの力に於いて……巻き起こされるであろう一大旋風下に於いて団結し、以って解決の道を拓かねばならぬ」。
筆者はこのとき、大阪に行く父親について行かされたが、話がついて戻ってきた時は、上機嫌だったという。その後、食糧流通に関する法改正があったことから、筆者は、父の主張が正しく評価されたされたことを伺い知るのである。
新聞の編集権について、昭和二十一年五月十九日に起きた「食糧メーデー」対して、同年五月二十に出されたマッカーサー司令部の声明を徳富蘇峰著「終戦後日記Ⅱ」(講談社)から引用するとして、次の様な趣旨の一文を紹介している。
「米国においては新聞の編集方針は社長、編集局長を中心とする協議会によって決定され、編集局長の責任はいかなる理由の下においてもこれを回避することは許されず、これはそのまま編集局長の権利である。……しかしここに区別すべきは、記事の報道と署名に意見の表明との相違である。個人の権利は公論にまたずして侵害さるべきではない……」
署名記事は執筆した本人に責任があり、その編集者は及ばないというもの。
したがって、筆者の父が検閲にかかっても、淡路タイムスという新聞は継続されたのであろう、としている。
編集者と著作者の責任問題は、微妙なものがある。
《読売新聞5月6日》今週は、桐江キミコ「お月さん」(小学館)。《それでも生きている》12編の物語の登場人物はみんな、「すこし悲しくて、少し変わっていて、少し痛々しい」という。「結局、私の胸の意地悪で残酷な棘は、そういう中途半端な優しさなのかも知れない」。優しさの中にある残酷さに言及するあたり、文学的だね。「この本を読み終えた時、いろんな人の顔を思い出した」「私の記憶の中では誰もが楽しそうに笑っている。そんな顔をたくさん思い出したら胸がほんわり暖かくなって、自分が許されたような気になった」。
皆川博子「聖餐城」750円/重松清「カシオペアの丘で」(上・下)1000円/佐藤多佳子「一瞬の風になれ」(1~3)各450円/三浦しおん「風が強く吹いている」600円/柴田哲孝「KAPPA」500円/万城目学「鴨川ホルモー」400円/森浩美「こちらの事情」400円/石田衣良「Gボーイズ冬戦争 池袋ウェストゲートパーク7」450円/伊坂幸太郎「終末のフレーズ」。
農民文学賞作家の北原文雄氏が中心となって淡路島文学同人会(〒656-0016兵庫県州本市下内膳272-2)を結成し、創刊号を発行した。「わたしたちは淡路島文芸を応援します」というメッセージ広告が、ホテル・ニューアワジ木下圭子女将、クラモト皮膚科院長、淡路信用金庫理事長、仲野耳鼻咽喉科院長、富賀見周彦税理士事務所長、溝上眼科院長の連名であり、頼もしいところがある。淡路島に地縁のある人の同人参加を呼びかけている。年会費5千円。
【「空を泳ぐ」望月廣次郎】
若いお坊さんの性的な夢想や現実的な女性関係をストーリー化したもの。牧歌的、素朴な味がある。坊さんが極楽浄土などを信じていないまま、法事で経を上げる現実。僧籍と女性の関係など、テーマと提示しながらそれにこだわる様子がなく、ストーリーになっているが、読み物から出ないで終っている。
【「それは空からきた」宇津木洋】
断片的なものや小説的なものなど自由に書いた散文と思いきや、現実から遊離した意識をとらえたり、会社勤務で出会った女性への不思議な親愛な感覚をとらえている。ひとことでは言うに言われぬ感覚を意識化しているところが作品として読みどころを持っている。特に、最終章の「見るという単純な行為」は、哲学的な手法というには大げさだが、見ることを題材に文の芸にしているところが面白い。
(つづく)
対象作品=「装置としての詩空間(二十五)―文語体という詩想美亦は漂白の位相」溝口章(「青い花」56号/東村山市)、「『テエベス百門』の夕映え三十」岡井隆(「未來」662/中野区)、「骨を噛む女」西向聡(「法螺」56/交野市)、「熊殺しの旅路」中島隆(「雑記囃子」4号/伊丹市)、「お墓の裏へ」兼多遥(「季刊 作家」61号/豊田市)、「SOOHA」創刊号(横浜市)、「雑踏のショール」山本楡美子(「ぶりぜ」創刊号/武蔵野市)=(同人誌「木曜日」のよこいさんまとめによる)
「婦人文芸」創刊50周年記念の集い!自立の精神が支えた同人誌 (上)
「婦人文芸」創刊50周年記念の集い!(下)
今回の記念パーティでは、「婦人文芸」といえども、まだ仲間内のもたれあい、甘えのようなものがあるーーという話が出た。そういう面があるかもしれない。が、自分の立場、存在を理解して欲しいという作者の自己表現を主体として、売れる雑誌などはない。売るためでなく書かれた作品が、売れるような作品の体裁をしていないからといって、甘いとするのはどうなのであろう。
これを歴史的に後に読むことしてみよう。すると身近な自己表現的小説は、貴重な時代の記録である。現在売れている面白おかしいヒット本は、情報の海に埋没する可能性もでてくるのである。
売れなくなれば、文芸商業誌はなくなるが、同人誌で自己存在を確認したい人々は増えても減ることはないであろう。同時に、社会に無関心な人々も増え、説得力をもって語るに難しい時代に入っている。視点を変えてみることも必要に思う。
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