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2007年3月31日 (土)

「婦人文芸」83号作品紹介(4)

【「かげろう」音森れん】
知的な発達が遅れたまま大人になった元治という男。親が暮らしに困らない資産を残していってくれたが、亡き後にその資産を狙ってさまざまな人が現れる。一人の女性と結婚したが、妻に資産を持ち出されても、そうは思わない男。しかし、元治の周囲の人の彼を見る目はあたたかい。ひと昔前は、たしかにそうであった。弱者をいじめる者がいれば、それをたしなめる者の方が多かった。目先の効く抜け目なさを争う社会のなかで、鈍重ではあるが、一途な人間の心を描く。元治は、海難死をした息子に会いに嵐の海に沈んで行く。知恵者は死の恐怖におびえるが、元治の心は動じないようだ。作者の創作精神の進化も読み取れるところがある。
【「たったこれだけかよ」駒井朝】
中越地震の襲われた地域の人の同窓会の集まりの話。年々集る人がいなくなる。「たったこれだけかよ」は、その人数の少なさに発する言葉だが、人生への嘆きにも受取れる。
【「殺したい相手」淘山竜子】
専業主婦から地域で、ホームページ作成のIT事業を起業し社長をする美佳と、それを支援する大学同窓生の亜矢子。地域産業の零細企業の実態を背景に描き、商工会議所の富永という男が、亜矢子にセクハラ的行為をする話に重点が移る。ビジネス的には、富永を必要とすると考える亜矢子は、富永の行為を黙認する。しかし、富永の亜矢子に対する行為が、盗撮写真で暴露され、富永は社会的信用を失う。このようにストーリーを述べてもあまり意味をもたないのような、純文学的表現の技能的面白さが随所に感じられる。まぎれもなく現代のある種の平和のなかの精神的不協和が、描かれている。

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「婦人文芸」83号作品紹介(3)

【「天・地・人」福島弘子】小学生時代に、西風(ならい)という男子生徒がいたという。私は海辺育ちなので、西風(ならい)、東風(こち)は日常用語であった。しかし、「ならい」という苗字の存在は知らなかった。その男子は俳句が得意であったが、お寺の家であったにもかかわらず、20歳ごろ自死してしまった話。もう一人の男子学生も絡んだエピソードがあるが、この西風(ならい)君の活躍していながらも、どこか運命的に影の薄いところを描いて、味わいがあるし、何故自死したかを忖度させるところに、深みが出ている。

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2007年3月30日 (金)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-8-

本欄は「詩人回廊」サイトに移動しました。

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「早稲田文学」雑誌版が復刊

05年5月で休刊していた雑誌「早稲田文学」が、4月から復刊し、秋からは季刊で発行していくという。復刊に合わせ、4月28日PM2時40分から、早大創立125周年記念講演会が小野記念講堂で開催される。フリーペーパー「早稲田文学」は、今後も継続されるという。

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2007年3月28日 (水)

「婦人文芸」83号作品紹介(2)

【「ヌブーさんの舞踏会」菅原治子】
1950年代のフランス留学時代の話。前号の82号で「屋根裏の少女」では、洋裁学校での朝鮮人の学友とのエピソードを述べている。小味な短編であった。今回は、フランス人の舞踏会に和服姿で出席し、ただひたすら時間の経つのを願って、次々と変わるパートーナーとダンスをする話。こいうのは、社会生活への訓練にもなっているのか、気疲れのする状況がよくわかり面白い。終わりに、妹が疲れて先に居眠りをしているところで終えるのが、象徴的でうまい。

【「カルチャーショック」中村翔】
戦後に、長男が戦友を家に泊まらせる。関西からやって来た人だが、それが関西人らしいサービス精神旺盛で、「あかしや・さんま」のようであった、という話。印象に残ることは、なんでも読ませる話になるものである。

【「心めぐる旅」斉田陽子】
肝臓がんが出たり消えたりする状況にある筆者が、養護施設に入ったので、見舞いに行くが、90歳を越えた叔母は、親しかったにもかかわらず、誰だかわからない。友人のTさん家族の話などを交え、時の流れを強く意識する領域からの思いが語られ、肝臓に再度がんが発生したこと記して終る。エッセイだが、タイトルそのもの。生きてきた道を壁画にしてみるような精神の遍歴を描いた小説にも読める。

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2007年3月27日 (火)

文芸雑誌の発行部数

041118AM【雑協が400誌の印刷部数を公表/「文学界」1万2千525部など】
 日本雑誌協会は、加盟92社のうち50社、400誌の最近1年間の印刷部数に基づく平均発行部数を、「マガジンデータ2004年」(発行所℡03-391-0775)で初めて公開した。
 部数データには、発行と実売の2種類があり、最近の実売は金額ベースで発行の7割弱。実売部数は日本ABC協会が年2回、出版社を調査しているが、対象は130誌ほど。その他は雑協が年一回公開する発行部数が尺度となる。が、発行側の自己申告で数字が多めになりがちだったため、広告主側がデータの透明性を求めていた。

 03年9月から04年8月発売の印刷部数を平均したもののうち、文芸雑誌については、次の通り。「小説現代」(39,416部)、「小説新潮」(35,518部)、「小説すばる」(24,000部)、「新潮」(12,525部)、「文学界」(12,525部)、「群像」(8,458部)、「すばる」(8,166部)。=朝日新聞2004年11月18日付=文芸研究月報2004年12月号(通巻48号)より。

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2007年3月25日 (日)

小泉今日子が会った叶姉妹の印象記

読売新聞の本よみうり堂の書評担当で、この人いいね、と思ったので、40歳記念出版の「小泉今日子の半径100m」(宝島社)を読む。その中に、映画「空中庭園」のプロモーションでTV局へしばしば行く話がある。そこで叶姉妹と出会う。
――誰にいちばん興奮したかというと、叶美香さん!豊満なオッパイに釘づけさ。なだらかな美しいウエストラインに垂涎さ。わざわざ私の楽屋までご挨拶にきてくれたよ。「はじめまして」と頭を下げる美香さんから、ほんのりと芳ばしいが。しばらく残り香を楽しませていただきました。なんか私、変態みたいになってきちゃった? なんかさぁ、同じ女に生まれてさぁ、こんなにも生き方っていうか、歩み方っていうか、なんだろう? とにかく次元が違う感じなんだもん。
 100円ショップって行ったことあるのかな? 居酒屋で生グレープサワー飲んだことあるかな? ・・・・――。

同じ芸能界にいても、叶姉妹が大衆文学なら、キョンキョンは純文学畑であるという感じをだすのに、瞬時に平談俗語文体へ切り替える、この辺のセンスが非凡といえば非凡。

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2007年3月24日 (土)

「婦人文芸」82・83号の秋本喜久子さんの2作

83号掲載の「その日シカゴの月は溶けて」(秋本喜久子)は、まず、独白的な個性のある文体が気持ちよい。ユーモアの中に乾いたペーソスを漂わせ、アメリカでの生活が描かれる。実に日本のW・サローヤン的な味わいがある。アルメニア人のサローヤンの小説は、小説らしくない小説が多いが、この作品も、生活日記風のスタイルでありながらヒューマンな生活ぶりが説得力をもって描かれる。
主人公は更年期障害で、自律神経失調に悩まされながら、アメリカ・シカゴへ向う。息子の真吾はアメリカでウクライナの女性、ナターシャと結婚、生まれたばかりの子どもの世話をして欲しいと、頼まれたからである。英語をたしなみ、アメリカの風土を理解している主人公だが、ウクライナ出身の息子の妻は、また独自のカルチャーをもっている。ストレスで自律神経を乱しながら、孫の世話をする過程が描かれる。
周囲の人物の描き方の距離感の良さ、適切さは天下一品のものがある。異邦人同士で生活するのが当たり前のアメリカ社会が見事に活写されている。

―――と、以前の私のメモにある。他に、「屋根裏の少女」(菅原治子)、「介護一」(和田聖子、「望郷」(野中間世)、「あにき」(中村翔)などが印象にあると、記録している。そのうちに作品紹介しようと思っていたら。「婦人文芸」83号が到着した。
きっと好評で、続編をかいているのではないかと、開いたらあった。そこでまず、読んだのが「ナターシャために」(秋本喜久子)である。前編で素直でストレートな心情のままに、頑張って生活するナターシャが来日する。それを支える姑である主人公の暖かい心情をベースにし、数々のエピソードを紹介する視線が感動を与える。グローバルな人間関係による日常のなかの非日常を描く。とにかく面白いし、読後に心豊かな余韻を残す。(つづく)

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徳田秋声「仮装人物」と山田順子-6-

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2007年3月22日 (木)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-4-

 本欄は「詩人回廊」のサイトに移動しました。《参照;詩人回廊・北一郎の庭

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2007年3月21日 (水)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-3-

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2007年3月20日 (火)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-2-

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2007年3月19日 (月)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-1-

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2007年3月18日 (日)

小泉今日子の女優的文芸書評

読売新聞の日曜版「本よみうり堂」で書評も担当して、本の紹介と感想を書いているキョンキョン。18日付けには永沢光雄の遺作?「恋って苦しいんだよね」(リトルモア)を評論。本を読んで、ここに登場する中年の男たちを知っているような気がする、とし、自分の中に潜む欲望や願望を搾り出したいような気にさせるという。
その以前には、綿谷りさのアイドル芸能人を描いた「夢を与える」について評論し、作品の悲劇的な物語とは別に、芸能人の大衆に夢を与えることへの使命感を語っている。

<ニュース抜粋記事>
デビュー25周年の小泉今日子(41)が4年ぶりのライブを16日、東京・新木場スタジオコーストで行った。音楽イベント「AP BANG!東京環境会議」に出演。音楽プロデューサーの小林武史(47)ら豪華バンドをバックに代表曲「あなたに会えてよかった」などを披露。
 ステージでは、小林がキーボードを担当した豪華バンドをバックに、小林提供の「My Sweet Home」「あなたに会えてよかった」「サヨナラCOLOR」の3曲を披露。「こうして小林さんとやるのは初めてでうれしかった。ただ、久しぶりのライブに少々緊張しておりまして、歌詞も危ういところがあってすみません」と苦笑い。「41歳で~す」と若い観客たちに明かすと驚きの声が上がった。

 ラストは93年から始めているポエトリー・リーディング(詩の朗読)。谷川俊太郎「黄金の魚」、田村隆一「日没の時間」をしっとりと読み上げ、女優と歌手の両輪で培ったワザと、いまだからこそある大人の女性としての包容力を感じさせた。(3月17日・スポニチ)

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2007年3月16日 (金)

東浩紀氏の文芸評論「ゲーム的リアリズム誕生」(講談社)

<講談社メールマガジンより>
東浩紀です。本を出さない、出さないと言われていた僕ですが、ついに新著を
書きました。『ゲーム的リアリズムの誕生』は、『動物化するポストモダン』の続編ですが、単独でも読める著作です。ライトノベルやオタク系のゲームなど、いささか特殊な作品を扱っていますが、議論の中心は、「ポストモダン、すなわち物語の力が衰えた世界において、それでも物語を語ろうとすればどうなるか」という普遍的な問いかけにあります。議論は大塚英志の評論から始まり、ライトノベルと美少女ゲームを通過して、最後は舞城王太郎の小説で終わります。
  『ゲーム的リアリズムの誕生』には多様な文脈が流れ込んでいます。この本は、僕がはじめて記した本格的な(といってもかなり変化球的ですが)文芸評論であり、アップデートされたポストモダン論であり、また同時にライトノベル・ブームへの僕自身の関与の総決算の書でもあります。「オタクたちの文学」の大雑把な紹介としても読めるでしょうし、市場の行方を占う本としてもあるていど役立つと思います。二〇〇六年の後半から書き始めているので、「涼宮ハルヒ」『ひぐらしのなく頃に』といった流行にも対応しています(笑)。いろいろな読み方をしてもらいたい本です。
  批評家としての僕の力量は、この著作でかなり明らかになっていると思います。
 ぜひご一読ください。 【東浩紀】

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2007年3月13日 (火)

単行本「うたかたの記―明治の村医者・脩平伝」森當著

「うたかたの記―明治の村医者・脩平伝」(武蔵野書房)は、幕末から明治にかけ、地域の村の医師として尽くした作者の先祖の伝記だという。

 常に農村の庶民の生活から離れなかった主人公の生涯を地道に描く。病院という名称が幕末から明治にかけて生まれたという当時の史実などもわかり、物語というより生活史の興味も引く。
 
小説的な展開が面白くなるのは、後半部からで、脩平夫婦は子ども出来ないので、継母のもとにいた「あさ」という少女を養女にもらい、やがて栄太郎という婿を取るが。しかし、ボタンの架け違いから栄太郎は身ごもった「あさ」を置いて家出してしまう。子を産んだ「あさ」は、それから幾年かして亡くなる。この「あさ」をめぐる物語がこの本の核になっている。後になって栄太郎は台湾にわたり駅長になるまで変転する。淡々とした筆致がかえって読者の想像力と共感を呼ぶ。アマゾンのレビューに、同様の感想を記入した。

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2007年3月12日 (月)

北原文雄著「島で生きる」から

農民文学賞作家・北原文雄さんのエッセイ集「島で生きる」(教育出版センター刊)を、すこしずつ読んでいる。農民文学賞受賞者は、その後も農民であり、作家業にならない人がほとんどのようである。そこには、文学に生きるのではなく、よりよく生きることのための文化が文学であることがよく示されている。このエッセイも、生活と文学との合流点を足場にしているので、足が大地に踏んでいるような手ごたえのあるものが多い。たとえば、農民一揆と義民伝説などは、地域の話のようでいて、全国一般的なものではないかと、感じさせる。
 昨年の第一回目の「伊藤桂一先生を囲む会」に出席された話も「詩を大事にする作家」(兵庫県現代詩協会「会報」掲載文)として収められている。今年の第2回「囲む会」の様子もどこかに書いているのかもしれない。

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2007年3月11日 (日)

「文芸中部」74号・作品紹介(4)

【「交換ノート」井上武彦】
小説を趣味で書いている主人公が、クリスチャンの教会仲間と信仰に関する交換ノートつくってまわす話。それを提案した早川氏は、浄土真宗であったが妻をなくしてクリスチャンになった人。これに同調した上田老人は、自衛隊海軍にいたひと。海軍さんで、いまだに太平洋戦争を起こした日本軍人を批判し、反省をしている。
 主人公は、文学と宗教は本来、相反するものだと思っており、文芸評論家の佐古純一郎が牧師であることを知り驚く。
 読者としては、なぜ、文学と宗教が相反するのか、その辺の追求が物足りない。宮沢賢治をはじめ、椎名燐三、遠藤周作など宗教と文学を合流させているのでは。神と自分、仏と自分という関係において文学と相反するものはないように思える。ただ、教会という組織とは相容れないことがあるかもしれない。
 こういう私自身、お寺が浄土真宗である。蓮如聖人の御文章(白骨章)「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり、されば、いまだに万歳の人身をうけたりという事をきかず、一生すぎやすし・・・」と聞くと反射反応的に悲しくなる。お葬式になると必ず聞かされてきたからである。
 その割には、岩波文庫の旧約と新約の聖書は一通り、読んだ。作家の柴田錬三郎が生前、聖書を読まないようでは、作家にもなれない、とかなんとか書いてあったのを記憶していて、20代にたまたま新幹線で関西と東京を幾度も往復する時期があり、車中で読むことにしたのである。
 今でも記憶があるのは「ヨブ記」でヨブの嘆きが正しいと思ったことだ。では、なぜこのヨブ記が存在するかといえば、「理屈はない。信じよ。とにかく、飛び越えよ。信じて祈れよ」という過程を示し、祈るという過程が信仰であると主張しているように思えた。
 その点では、この作品の後半に異論はないのだが、納得したからよいというものでもないような気がする。作中の上田氏85歳、早川氏75歳、裕73歳とある。上田氏と早川氏のノートは普通に読める。そこで主人公裕氏の思索・思弁の展開がもう少し欲しかった。そのわけは、信仰における精神の完結と文芸という表現型式が求めるものとは異なるものがあるという、私の考えによる。絵画用の画布の上に彫刻作品を乗せた芸術作品は、形式破りであり、絵は平面という制約の上に描く。音楽は時間の制約をもって表現する。文学は文字のイメージで持って表現する。信仰は祈りで完結する。
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テレビが新聞を読み上げる時代になりました。情報ルートが単純化しすぎています。情報の多様化に参加のため「暮らしのノートPJ・ITO」ニュースサイトを起動させました。運営する団体・企業の存在感を高めるため、ホームページへのアクセスアップのためにこのサイトの「カテゴリー」スペースを掲示しませんか。文芸同志会年会費4800円、同人誌表紙写真、編集後記掲載料800円(同人雑誌のみ、個人で作品発表をしたい方は詩人回廊に発表の庭を作れます。)。企業は別途取材費が必要です。検索の事例
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2007年3月10日 (土)

「文學界」07年4月号「同人雑誌評」大河内昭爾氏筆(よこいさん・まとめ)

《対象作品》
「茗荷喰うたか、暁烏」木島次郎、「河井継之助失踪異聞」米山敏保、「砂漠でお茶を」(「季節と城」2)鎌田陵人、「補充の天地」石原悟、「喪われた潟の風景」若林光雄(以上「北方文学」58号/長岡市)、「ろくろ侍」周防凛太郎、「ゴムまり」鈴木比嵯子、「女たちの滝参り」小河原範夫(以上「ガランス」14号/福岡市)、「オデン屋」草田綿太郎(「雲」1月号/東京都)、「薄茶色の葉書」戸田静子(「郡山文学」29号/郡山市)、「晴れた日に」長瀬葉子(「とぽす」42号/茨木市)、「悲しみの黒い森」三澤章子(「橡」8号/伊勢崎市)、「撲る」、「存在すること」以上・寺町良夫、(「美濃文学」76号/北方町)、「劇舞台『広瀬淡窓』」河津武俊、「女猟師」相加八重(以上「日田文學」54号/日田市)、「芸術と嘘―贋作問題について」竹中忍、「ふたたびの朝」中村ちづ子(以上「北斗」534号/名古屋市)、「堕ちた天使」吉村滋、「麦味噌と白味噌」樋口かずみ、「ローカルバス岩野線」畑島剛、「有明の岬の唄」池部正臣、「尾鈴に題す」海帆洋三(以上「九州文学」53号/佐賀市)、「石である」伊藤伸司、「馬頷」衣斐弘行、「からからまわれ」磯崎仮名子、「魂離れ」青井奈津、「割引く」キム・リジャ、「哲学へのステップ バイ ステップ」奥貞二、「竹中浩三の街角」河原徳子、「『本居宣長』を読む②」東俊郎、「小林秀雄の訳業2」清水信(以上「火涼」56号/鈴鹿市)、「マユミの実の食感」、「あかねの理髪店」以上・中嶋英二(「江南文学」53号/流山市)
ベスト5は、「ふたたびの朝」中村ちづ子、「悲しみの黒い森」三澤章子、「茗荷喰うたか、暁烏」木島次郎、「マユミの実の食感」中嶋英二、「ろくろ侍」周防凛太郎

文芸同人誌案内掲示板・よこいさんのまとめより)

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「文芸中部」74号・作品紹介(3)

【「地下室」朝岡明美】
 40歳のOL、麻衣子は日の当る秘書課にいたが、主任となって地下にある厚生課に転属される。そこには売店と食堂も併設されている。
 転属したとたんに、売店を手伝っていた小柄な女子社員が貧血を起こして倒れる。そこから、女性の課長や社員たちのゆるゆるとした中の切実な生活を垣間見せる。麻衣子も自分を棄てて他の女と結婚した男と、まだ連絡を取りあっているようなゆるい生活をしている。
散漫ではあるが、地下にあるオフィスという設定が非常によく効いており、下界と内界の往来という事態を巧く演出できている。日常の小さな幸せ感と、閉塞感という矛盾した現実を描いているように読める。まさしく小説は書きようであるな、と思わせる。面白い。(つづく)
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テレビが新聞を読み上げる時代になりました。情報ルートが単純化しすぎています。情報の多様化に参加のため「暮らしのノートPJ・ITO」ニュースサイトを起動させました。運営する団体・企業の存在感を高めるため、ホームページへのアクセスアップのためにこのサイトの「カテゴリー」スペースを掲示しませんか。文芸同志会年会費4800円、同人誌表紙写真、編集後記掲載料800円(同人雑誌のみ、個人で作品発表をしたい方は詩人回廊に発表の庭を作れます。)。企業は別途取材費が必要です。検索の事例
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2007年3月 8日 (木)

「文芸中部」74号・作品紹介(2)

【「ゲンショと船乗りの末裔」濱中禧行】
昭二という老人の先祖は北前船の船主だったという。そこで、先祖の痕跡を訪ねる旅に出るが、そこで夢とも現実ともつかぬ、さまざま体験をし、良い思いもするらしい。いってみれば実現してはならない情愛「萌え」の世界の物語のようだ。いいところもあるものの、幻影でも実現してしまっているのが、余韻を短いものにしているような気がする。

【「闇の語部」蒲生一三】
歴史的な稗田阿礼の物語。ミクロ的な世界から語られるので、歴史的事実以外になにあるのか、わからず。苦手。以前に私はよく、「この作品でなにが問題なのか、先に提示して欲しい」というと「そういうことを言うのは文学がわかっていない」と反論されたものだ。でも、わからないと、なにも理解できないので仕方がない。

【「にわかに大雨ありき」藤澤美子】
危篤状態のまま入院している父親が息をひきとる瞬間を、別の場所で知る状態を描いたもの。短いが緊迫感とその微妙な意識がよく表現されている。キリストの最後の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と父の末期のつぶやき「二二が四、・・・」が符合するようなところが、意味を深めている。あれもこれもと表現を欲張らず、短く絞りきったところが良いと思った。
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2007年3月 7日 (水)

「文芸中部」74号・作品紹介(1)

【「原発ジプシー異聞」吉村登】
まず、死者による独白であることが知らされ、その死に至った原因が原発清掃作業の仕事にあると思わせることから、読み手の好奇心をそそりながら、死に至る過程をのべていく。
原発の現場作業員という仕事が詳しく描かれているので、どこかで取材したのかも知れない。しかし、描写はリアルであるが、必ずしも事実に即したものと受け取る必要がないように描かれている。
つねに見えない危険や不安、病気や事故、犯罪に囲まれて生きている我々の生活と隣合わせの情況に通じる工夫がしてあるようで、それが、この作品を優れて文学的なものにしている。油絵で言えば、下塗りが死の色であり、そこに生の存在感をさまざまに上塗りするが、それによって下塗りの死の色はますます強く浮かび上がってくるようなものである。
具体的には、原発の作業員は、放射能被爆を恐れて、従事する人が少なく、結局それを専門にして生計を立てざるを得ない労働者の姿が描かれる。夫婦とよく素性のわからない若者、老人たちを描く。ちょっと横光利一の「機械」を思わせる雰囲気がある。しかし、それは紛れもなく現代の不安とあきらめのようなものが感じられ、まざに、現代人が考えることを避けている現実を、形にして見せているように読めた。
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