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2007年3月11日 (日)

「文芸中部」74号・作品紹介(4)

【「交換ノート」井上武彦】
小説を趣味で書いている主人公が、クリスチャンの教会仲間と信仰に関する交換ノートつくってまわす話。それを提案した早川氏は、浄土真宗であったが妻をなくしてクリスチャンになった人。これに同調した上田老人は、自衛隊海軍にいたひと。海軍さんで、いまだに太平洋戦争を起こした日本軍人を批判し、反省をしている。
 主人公は、文学と宗教は本来、相反するものだと思っており、文芸評論家の佐古純一郎が牧師であることを知り驚く。
 読者としては、なぜ、文学と宗教が相反するのか、その辺の追求が物足りない。宮沢賢治をはじめ、椎名燐三、遠藤周作など宗教と文学を合流させているのでは。神と自分、仏と自分という関係において文学と相反するものはないように思える。ただ、教会という組織とは相容れないことがあるかもしれない。
 こういう私自身、お寺が浄土真宗である。蓮如聖人の御文章(白骨章)「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり、されば、いまだに万歳の人身をうけたりという事をきかず、一生すぎやすし・・・」と聞くと反射反応的に悲しくなる。お葬式になると必ず聞かされてきたからである。
 その割には、岩波文庫の旧約と新約の聖書は一通り、読んだ。作家の柴田錬三郎が生前、聖書を読まないようでは、作家にもなれない、とかなんとか書いてあったのを記憶していて、20代にたまたま新幹線で関西と東京を幾度も往復する時期があり、車中で読むことにしたのである。
 今でも記憶があるのは「ヨブ記」でヨブの嘆きが正しいと思ったことだ。では、なぜこのヨブ記が存在するかといえば、「理屈はない。信じよ。とにかく、飛び越えよ。信じて祈れよ」という過程を示し、祈るという過程が信仰であると主張しているように思えた。
 その点では、この作品の後半に異論はないのだが、納得したからよいというものでもないような気がする。作中の上田氏85歳、早川氏75歳、裕73歳とある。上田氏と早川氏のノートは普通に読める。そこで主人公裕氏の思索・思弁の展開がもう少し欲しかった。そのわけは、信仰における精神の完結と文芸という表現型式が求めるものとは異なるものがあるという、私の考えによる。絵画用の画布の上に彫刻作品を乗せた芸術作品は、形式破りであり、絵は平面という制約の上に描く。音楽は時間の制約をもって表現する。文学は文字のイメージで持って表現する。信仰は祈りで完結する。
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