社説盗作事件。出来ないことをしようとすると・・・
下記の新聞の記事が目についた。
山梨日日新聞社(甲府市)の小林広・元論説委員長が執筆した社説で、神戸新聞と西日本新聞の社説の一部を盗用していた問題で同社は20日、元論説委員長の執筆した社説15本で新たに他メディアからの盗用が判明したと発表、野口英一・社長兼会長が社長職を辞任する考えを明らかにした。
同社によると、新たに盗用が判明した社説は2004年1月19日掲載の「国際コメ年」から07年2月5日掲載の「裁判員制度世論調査」までの計15本。読売新聞から6本、朝日新聞と信濃毎日新聞から各4本、日本経済新聞から3本、毎日新聞から2本など6つのメディアの社説や一般記事など計20本の記事から盗用した。
小林元論説委員長は、15本の社説について盗用を認め、社内調査委員会の聴取に対し、「不得意なテーマもあり、きつくなった。(ほかの)新聞社は、同志のような意識になり、引き写しても許されるような考えになってしまった」などと話しているという。[読売新聞社:2007年02月20日]
【ボケの感想】
こういう現象は、新聞界には多い。要するに生活していて、同業の新聞記事しか読んでいない。世間は新聞記事のなかにあると思ってしまうらしい。
よく、倫理観が問題にされるが、言い訳として「(ほかの)新聞社は同志のような気になり・・・・」とか述べているとすると、ノイローゼではないのか。病気では、くびにするのは、どうか?実は、これは個人的な問題でなく、システムの問題ではないのか。人はなんでも、できるという前提がおかしい。論説委員なんて専門委員があって、それだけやるなどというのも変だ。不可能を前提にしたシステムなら、それはやめるべきであろう。できないということのないシステムを考えるべきであろう。
自分もノイローゼ現象に陥ることがあるが、その多くは出来ないことを無理にやろうとする時に、おきる気がする。出来ないことは、できないと言おうと決めると、大体直る。そのかわり、ボケなどという愛称をつけられ、立派な人間とみなされないが、それで首になるとは限らない。
かの論説委員さんは、朝日の社説がよいと思ったら、「何月何日の朝日の社説にコウ書いてあるのは同感である」とすることを認めたら、考えもない頭から無理にひねり出すより、ずっと客観的で、読者は朝日もそう書いているのか、と知ることになり新聞の意義があように思う。
もともと何も言うことのない人が、無理にもっともらしいことを書いて、読者の誰がそれを参考にするのか、参考にするのは新聞仲間だけと、この事件が証明している。空論は、小中学生でも述べられる。ためしに自分の子どもに、イラク戦争とアメリカの行動を、どう思うか質問したらいい。エリートの血筋である。そのまま写せばいい社説になるのではないだろうか。メディアは、事実報道することを標榜しているのだから、現実に即したシステムを考えたらどうかな?
ちなみに、同人雑誌が送られてくると、どんなジャンルでも、意見を述べている自分を意識することがある。そのとき「ぼけは、いや、僕はボケモン、いやバカモンだな!」と、思う。何にでも意見を述べるやつの言うことは、まったく聞かなくても生活に支障がないことが多い。、
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