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2007年1月 4日 (木)

作家・吉村昭は自然死であった。「季刊文科」36号から

 作家・吉村昭が亡くなったので、急遽、追悼号としたためか、非常に厚みのあるものになっている。
対談が吉村夫人の津村節子氏と大河内昭爾氏の対談。吉村昭が亡くなると、新聞メディアが尊厳死をしたと大きく報道し、津村氏はもとより、大河内氏にまで取材にきたという。大河内氏は身体を壊して入院していて、お二人ともひどく体重が減ったとある。
 ここで、吉村昭氏の死が、尊厳死だとか自殺だとか報道されて、迷惑したことが語れている。
吉村昭氏が、自分で点滴をはずしたことは事実らしい。しかし、それを尊厳死だとか自殺だとか称するのはたしかに変だ。
点滴は生命維持装置ではない。外したからすぐ死ぬようなことはない。同誌の追悼文で、医師・作家の加賀乙彦氏が、「吉村昭さんの見事な自然死」というタイトルにしたのもメディア報道を意識したものであろう。
とにかく、本誌36号は保存版としても貴重な号である。

本誌には作家・伊藤桂一氏が、「小説の書き出し『蛍の河』について」を寄稿している。40枚という短さで直木賞を受賞した作品についてである。
 この作品を作者自身が非常にうまくいった作品としている。ここに伊藤桂一氏の小説観があらわれている。つまり、作品にはつねにあるべき姿をしてなければならない、という小説観である。あれも良いがこれも良いといった、骨がどこにあるかわからないような小説観ではない。あるべき姿をしているか、という問いかけの視点は、他人の作者も自作品も同じレベルで問いかける。この姿勢は、教える方にも通じる。私が、伊藤教室で作品を提出したとき、伊藤先生は「きみ、これは二つのエピソードからなるが、どうも溶接の仕方が悪いね。僕なら、もっとうまく書けるよ」と言われた。先生にそういわれても、面食らうばかり。しかし、それじゃ、直す余地があり、うまく行けば先生並みの作品になるのかもと、いろいろ試したが、うまく行かず、放置してしまった。もし、自分に才能と努力する力があれば、きっといい作品になったのかも知れない。それも、伊藤桂一氏の師として、独自の小説観をもつことの表れのように思う。このように、つたない者であっても、小説の本質に引き寄せてくれる。

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