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2007年1月 7日 (日)

同人誌「文学街」の02年2月

文芸研究月報の2002年2月号の作品紹介から。森啓夫主宰の「文学街」は月刊発行なので、発行ペースが早い。「日通文学」が、休刊になったので、月刊同人誌は「文学街」だけなのかもしれない。また、崎村裕氏が松本道介氏と議論をしているが、松本教授のドイツ文学者としての経験を考慮に入れていない分、議論がかみ合っていない。さんざん西欧哲学と付き合ってきた人が、日本人として感じている精神的背景を考えると、表面的なことではすまないものを読むべきではないだろうか。

同人誌 「文学街」(東京都)47号/48号(2002年2月号より)
【「吉本隆明-もう一つの人生(1)」川端要壽(47号)/「同(2)48号】
 この作者は、吉本隆明氏とは旧くから友人で、同人誌作家といっても相撲の栃錦と親交があって「勤王横綱-陣幕久五郎」(河出書房)、「奇人横綱-男女ノ川」など多数の著書がある。小説だけが同人誌作家らしい。これらのことが読んでいくとわかる。とにかく今、最も乗っている同人誌作家で、どれを読んでも面白い。吉本が、福武書店の重役であった編集者の寺田博と組んで「海燕」に「マス・イメ-ジ論」を連載していた。ところが福武書店は、運営難であった柄谷行人が活躍する「批評空間」を引き受けることになった。吉本は柄谷がアメリカに行って以来、自分の批判者になっていると反発。連載を「マス・イメ-ジ論」の連載を止めてしまった経緯が書かれている。また、柔らかな筆づかいで、隆明と吉本バナナとの親子関係を浮き彫りにしており、興味が尽きない。

【「座して滅びを待つしかないのだろうか-再び松本道介氏への疑問」崎村裕(47号)/対話=「私の〈思想的立場〉-再度、崎村裕氏の疑問に答える」松本道介(48号)】
 これは、誌上で崎村氏が「文學界」同人雑誌評担当の文芸評論家・松本道介氏の論評に疑問を投げ、松本氏が当誌に反論を寄せた。そこで、対話がくりひろげられているものらしい。
はじまりを知らないのだが、太平洋戦争に対する国民の姿勢と戦争裁判に関する両者の主張は、それぞれ興味深い。しかし、噛み合わない気もする。「運命論」というのは、予感であったり、既に反省したりした結果の情動的主観である。客観的必然論ではない。善悪正誤を超越し、反省しようがないというのは分かる。なぜなら、それは日本列島及び日本民族をまとめて一つの人格になぞらえた、存在了解のスタイルであるからだ。これは個人が自己の存在を自覚し了解する態度と、すみやかに連結できる。

松本氏の、日本民族としての特性に自己の存在を重ねる方向は、論理的必然であろう。私はこれが、日本の国が人格的象徴として天皇を包含してき特性にも重なるとみる。片や、崎村氏の過去から未来を展望し、よりよい選択をすべきだという客観的分析からすると、善悪正誤はあるし、反省する余地は大いにある。しかし、同じ土俵ではないような気がする。
崎村氏は、そのように客観的に反省した結果、日本人として自己の存在をどのように把握していくのか。その問題に論及すれば、対話は成立するのではないだろうか。松本道介氏は、この対話を踏まえて雑誌「季刊文科」21号に「私の〈思想的立場〉」という論を発表するというので注目したい。著書「視点」と同様、安易な大勢追随主義に一太刀があるのかも知れない。

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