井上武彦「異色作家」を読む
作中でも、なぜ小説なんぞを書くのか、という問答を小実昌とするところがあるが、たしかに信仰に入りながら、なぜ信仰心から離れたかのように見える技術の要求される小説を書く必要があるのか。説教と小説の根本的な差異を考えさせられる。
この小説には、田中小実昌を描くことで、彼の小説の構成の無作為性をそのまま、活用しているところも見受けられる。その意味で、作者は田中小実昌の分身化に成功しているようにも思える。
奇妙なことに、伊藤桂一、駒田信二、その他、四日市には作家が輩出している。かく言う私は、田中小実昌の翻訳本を多く持っている。翻訳でありながら、日本語として融合させる、文章名人という意味で、崇拝している。彼がバスに乗って、映画を見に行った場所も、私もかつて通った記憶があるところである。
異色作家として田中を描く作者の視線は、田中小実昌を、悟りを開こうとする修行僧でも見るように描く。それは、まるで作者の信仰者でありながら、作家であることの葛藤を田中小実昌が答えを出しているのではないかという、探究心のもたらすもののようだ。
小説の構造も小実昌流に近づいているが、このような視線で作家像を描くのは、この作家にして初めて、出来ることかもしれない。
小説表現と信仰との微妙な関係に戸惑うことは、そのテーマそのものが、大衆性をもたない。その意味でこの小説は、同人誌でなければ世にでることのない、純文学のなかの純文学ではないだろうか。
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