鶴樹の「肉体の変奏」-38-
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ところが、それにまして驚いたのは、背景になっている部屋のことだった。がらんとしたフローリングの部屋。椅子のない机が隅にある。その上にはワープロが置いてある。それは、いまおれが使っている三階の部屋そのものだ。写真の日付を見ると、六月から七月にかけての時期だ。
「それ、どこにあった? 紛失してしまっていた。それで探していたのだ」
椿博士は重くなった口をやっと開いた。博士は習慣で、書き上げた書類を次々と積上げる。さらに、その上に物を置く。そんなことだから、いつも探し物をしている始末だ。これも書類の間に落とし込み、見付けられなくなっていたのだろう。
「これは、家内のデラなのだ」
と、愛しげに写真を指でなでた。
「ほんとうに聡明な女だった。科学者としても、わたしより優れていたくらいだ」博士は声をつまらせていた。
「ということは? やっぱり、そうか。オードリン博士の見ぬいたように、頭脳交換はとっくに成功させていたのだな」
鈴木が感嘆したように声を上げた。
「いまさら、嘘はいわんよ。われわれ夫婦は、細胞の遺伝子と免疫特性をマッチングさせる細胞融合法を発見した。家内がアイディアをつくり、わたしが実用化させた。それまでは、わたしの着眼で実験をしていたのだが、ことごとく失敗していた。そうした行きづまりを打開する発想力はデラは天才的だった。生物学者であった彼女は、わたしの助手として忠実なあまり、その優れた才能に、自分でも気づかなかったのだ。
彼女はその頭脳に多くの可能性を残しながら、肉体を癌に侵されてしまった。もうすこし期間があれば、癌細胞など撃退できるのが判っていながら、実用化が間に合わなかったのだ。……とにかく、わたしは彼女の心と彼女の頭脳を愛した。失うにはあまりにも惜しかった。デラの病状が最悪の事態になったとき、わたしは、彼女の肉体を諦め、そのかわりあなた方が、支給してくれたマダム・クレバーという牝ゴリラに頭脳を移植したのだ。彼女の研究が、その優れた頭脳をこの世に残したのだ。それはまさに私達の研究の勝利だった」
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