【作家の日記「山田風太郎が見た日本」】
051210NHKTVより「文芸まるかじり」05年1月号
平成13年7月28日に79歳で亡くなった山田風太郎。17歳からの50年余にわたる日記を公開、1部を俳優・三国連太郎が風太郎を演じて再現。「60年安保・三島自決から昭和天皇まで」「鋭い批判の眼で戦後を切る」「家族に寄せる愛情」というタイトル。
日記は8月15日のみは空白である。医科大時代の学友、安西功医師は、そのとき決起しようかと風太郎たちと話し合ったという。時が過ぎ、戦後の復興で高度成長をする日本のエネルギーが、再び世界へ向うとなったらどうなるのか? と心配する。
東京オリンピックの祭典をTVで見て「雲一点もなき日本晴れ、誠に馬鹿げたことだが、至誠天に通ず、大日本は神国なり、なんて言葉が浮かぶ。これほど愛国心に燃えているのに、税務署から、さらに80万円支払えという……」収入の半分を取るなんてめちゃくちゃなり、と嘆く。以後、忍法帳のヒットで、新居を構える。41年9月1日「……巨人が勝った、それがどうした? 面白い理小説を書いた、それがどうした? 金が入って大きな家に住んだ、それがどうしたんだ? ただ、それがどうしたのだと言い切れぬことがある……。このことのみが恐るべし……」。
「日本に再軍備はいらないのではないか。国家が軍備するのは、自分の国の文化体系を守ろうとするからである。ところが日本人は自国の文化を大事にせずに、他国の文化を崇拝するからだ」という主旨を述べている。三島の事件については、敗戦の次のショックとし、三島の死は、肉体の衰えを怖れたというより、本能の衰退をおそれ、憂国は死ぬために用いた方便であるとする。また、昭和天皇の病重く、葛湯を食すれば下血をする事態になると、昭和63年10月4日「……飽食の日本で一天万乗の君は餓死に近い状態で死にゆき給う……」と記す。日記は平成5年6月30日で終わる。取材協力=山田啓子、遼見富雄、原田裕、有本正彦、山田風太郎記念館。プロデューサー=矢野義幸・二宮一幸。ディレクター=張相烈。(三国連太郎の演技、リアリズムを超えた創造的存在感あり)。
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