鶴樹の「肉体の変奏」-36-
口元が自由になった由美は、大きく深呼吸した。
「手も自由にしてよ。歩いたら転びそうだわ。いまさら、逃げもかくれもしないわよ。ミスタ、モーリス」つんけんとした口調だ。
モーリスは、軽く鼻をならした。由美に掛けてあったコートをとってやり、後ろ手に縛った紐をほどいた。それから、彼女の手首をマッサージしてやっている。
「ばか。なにをしているんだ、モーリス。こいつ等を連れて地下室へ行こうじゃないか。お前はゴリラを見張れ」
「由美がトイレットだと言っている。それを済ませてからだ。車のなかに長く居たからね。仕方がないよ」
「くそっ。はやくしろ」
そう言ってから鈴木は、椿博士のデスクのところに行き電話を使いはじめた。英語である。意味がとれない。トラックとかフライト・スケジュールとか、トーキョウ、アツギなどの地名が話の合間に入っている。
由美は黄色いブラウスに、赤いスカートという派手な格好だった。身をひるがえして、応接セットの背後の洗面所に入った。ドアを引きながら、青痣のある眼でちらりとおれの方を見た。困り切ったような、いまの出来事が信じられない、といった顔だった。
電話が鳴った。椿博士が出ようとしたが、鈴木がそれをおさえて、受話器をとった。受話器を耳に当て、やがて黙って切ってしまった。「相手は誰だったのだ?」
椿博士が訊いた。
「なんだか、テレビ局の水井とかいっていた。そんなもの。どうでもいい」
すると、また電話が鳴った。
「出ないと、変に思われるぞ」と椿博士。
「いま、たて混んでいると言え。なんでもいいから、断れ」鈴木は椿博士に銃を突きつけて言った。
「いま、お客が来ているのだ。何の用だね。次の放送の打合せ? それなら明日にしよう。明日なら大丈夫だ。ああ、いいとも、動物学者でも誰でも、連れてきていいさ。だから、今日はだめだ。もしー。もしもしーー」
向こうで切ったらしい。椿医師は、電話を終わらせた。
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