« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月30日 (金)

鶴樹の「肉体の変奏」-26-

「わたし、むずかしいことは判らない。でも、気になるのよ」

 律子は、床を指さして言った。

「見てよ。ここの家の電気コード、すごいタコ足配線だわ」

 たしかに、カーペット、ポット、ワープロ、テレビ、ラジカセなどが、コンセントにコンセントを差し継ぎして乱雑にコードが引きまわしてある。

「いい? ここのゴリラは、この継ぎ足しだらけのコンセントを一度も踏み潰さないのよ。ねえ。椿先生ですら、ときどきコードに躓きそうになるのに、ゴリラはまるでその位置を感覚的に知っているようだわ。妙にセンスがあるの。まさか、ゴリラのいた森にタコ足配線があって、それをよける歩き方を経験している訳でもないでしょうに」

「なんだって? きみは変なことを気にするんだな」椿医師は、返答に窮し、だまってしまった。

 おれも、そばで聞いていておどろいた。たしかに、由美と生活していたころ、彼女のタコ足配線の癖に、おれは慣らされていたのだった。いままで、おれなりにゴリラの癖を研究し、習得していたつもりだった。しかしそこまで、気がまわるわけがない。

 やがて、椿医師がおもむろに口を開いた。

「いや、それはだね。このマウンテン・ゴリラというのは、足の形が人間にいちばん近いのだ。おなじゴリラでも低地に住むローランド・ゴリラはもっと平べったく、未発達な足をしている。類人猿の進化は足から起きているというのが定説だ。マウンテン・ゴリラは、進化がすすんでいる方なのだ。それくらいだから、家の中のコード配列を足の感覚でおぼえるのは、簡単なんだろうよ」

「そうなんですか」律子はあまり納得したようではなかった。が、それ以上追及はしなかった。

 しかし、撮影機材を片付けているとき、水井プロデューサーに、彼女は囁いていた。

「椿医師はあんなことを言っていますけど、わたし、これはなにか大変なことなんだという予感がするのよ。でも、それが何なのか今イチ判らない。じれったいわ。なんなのこれの意味するものは?」

| | コメント (0)

2006年6月28日 (水)

鶴樹の「肉体の変奏」-25-

 テレビ局の取材が、その後、数回あって、断続的に放映されたが、医師はあたかもただの動物愛好家のように振舞っている。地階がおもてむきの研究室。二階が書斎を兼ねた寝室。小さな台所もある。三階がおれの部屋だ。おれの部屋の窓と扉には、鉄格子がはめてある。鍵は付いているが、かけたことがない。いちどテレビに映ったあと、視聴者から「完全な野放しは、いくらなんでも危険だ」という意見があったらしい。とにかく世間体のために形ばかりの格子を取り付けたのだ。

 テレビ局は、おれが椿医師のために洗濯機を使ったり、目玉焼きを作ったりしているところをビデオ収録した。

 リポーターの畠山律子が「ウッソウ。これじゃ、家事をしたことのない、わたしより役にたつわ」と目を丸くした。

「椿先生。これは動物学的に、画期的な発見になりません? 専門の学者に見せて研究してもらった方がいいと思いますけど?」

「そんなこと、見せるまでもない。訓練と教育さえすれば動物が、相当の能力を発揮するのは、専門家は良く知っている。人間だけが高級な生き物だと思うのは、キリスト教文化圏の人種が捏造した迷信なのだ」

「ええっ、そうなんですか。それにしても利口すぎるわ。もしアフリカのゴリラがみんなこれだけの知能を持っているとしたら大変なことじゃないの」

「なにが大変なんだ。そういうのは傲慢と言うものだ」度の強いメガネの奥で、椿医師の目が光った。

「いいかね。ゴリラは元来、自由に暮らして居たんだ。自由だよ。戒厳令や、権力に抑圧されることのない自由だよ。近親相姦もなければ、大量虐殺もない。高度の平和的な社会を構成していたのだ。人間が愚かな知能をふりまわして、森や大地を荒廃させる以前にはね。もちろん、ゴリラ世界にもまれに、争いや小児虐待的なものはある。しかし、それには意味がある。いや、意味を見失っていないというべきか。それにくらべ、人間は生きる意味を取り違えている」

| | コメント (0)

2006年6月26日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-24-

鶴樹の「肉体の変奏」-24

 頭脳細胞が記憶をもつということは、当然とされる。肉体の細胞がその何百分の一の記憶のかけらを持つことは考えられないことではない。特に、ゴリラの肉体の質量とおれの頭脳細胞の質量を較べたら、圧倒的にゴリラの肉体のほうが優る。肉体細胞が頭脳細胞を侵食して来ているのかも知れない。

 それ以来、医師はおれに意識の変化をワープロノートに入力するように指示してきている。椿医師はなんでも記録する。地下室の書庫には、膨大な量の大学ノートが、累積していた。その中におれとの会話がわりに打ち出したプリントなどが、はじめから保存してあるのを見つけた。

 研究用の机には、乱雑に資料が重ねられている。医師は狭くなったわずかなスペースを使ってよく書き物をする。その片隅に小さな写真額が立て掛けてあった。白衣を着た男女が椿医院の玄関前に並んで立っている。男は椿医師である。四十歳くらいか、まだ若い。女性は白人の外国人である。椿医師より背が高く、痩せぎみで、思慮深そうな瞳がカメラのレンズに向けられている。医院開設の記念写真らしい。女性は同僚の医師なのか、研究者なのか。よく判らない。

 研究室の地下二階は、奥が昔の鉱山かなにかの採掘坑道跡につづいていた。出口は小さな渓谷の河原につながっていた。

 椿医師は、ふだん地下室があることは他人には秘密にしていた。

| | コメント (0)

2006年6月24日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-23-

一方、日中の間、おれは椿医師の生活の手助けをせざるを得ない。重い物の運搬や高いところの物の出し入れは、老人にむりだからだ。椿医師は、ときおり夜陰にまぎれて、精密な機械のようなものを例の地下室に運んだりする。そのときには、おれのばか力がものをいう。地下一階には手術室がふたつあり、あいたスペースには、顕微鏡や測定器などがところ狭しとばかりに置いてある。

 

おれの生首がついた人工臓器システムは、地下二階にあった。循環器系統がしきりに動いていた。かつての自分の顔を見るのは不気味で、落ち着かない気がした。おれは無意識のうちに過去のことを忘れたがっているらしい。過去の記憶につながるものに出会うと、妙にいらだつことがある。とくに最近は、アフリカの森の夢を良く見る。ゴリラの過去がよみがえり、おれ自身の過去と交錯してきているような気がする。

 椿医師はそのことを書いたおれのメモを見て驚いていた。

「なに? それはゴリラの肉体が、記憶を残しているってことだな。ふうむ。そんな現象が起きるのか」と熱心にメモをとっていた。

| | コメント (0)

2006年6月22日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-22-

          7

 春になった。喰い物が豊富になったのはありがたい。おれは箱根周辺の山谷を跳梁し、植物分布や、火山脈の経路をおぼえた。行動範囲もひろくなった。といっても夜明け前の山中だから、人と出会うことはない。食物の採取は、だいたい見た目と香りで、身体が選択してくれる。毒草などには食欲がわかないのだ。木や草は根絶やしにするほど喰い尽くさないかぎり、幾度でも葉や芽を提供してくれる。およそ草食動物は山野草の生命を奪うことなく、共に生き延びる余地を残した食生活を可能にしているのだ。

 おれの肉体は、見事に自然の霊気に呼応し、こころを躍動させる。水の匂い、樹々と草々呼吸がゴリラの肉体を躍動させるのだ。いや、そうではないな。肉体がこころなのだ。

 これは動物にならなければ、分からない境地だろう。

| | コメント (0)

2006年6月20日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-21-

 人間だって動物だ。ただ生きるだけで、何が悪いというのだ。理想だとか、役に立つとか、立たないとか、くだらないこと考えて勝手に苦しむから、博士のようになってしまうのだ。おれは博士がノイローゼになっているのがわかった。難しい理想などというものを勝手につくりあげて、出来もしないことを、無理にやろうとするから、そうなるのだ。

とにかくこの医師のいうことを気にしていると、じつに疲れる。おれはばかばかしくなって、また床に寝ころんだ。外の散歩(といっても、ほとんど草や樹の皮、新芽などを食うためのものだが)の後、一眠りしたくなる。ゴリラの身体というやつは、無用なことをしないように出来ている。食えば寝る。全身にそれで満足感が伝わってくる。人間からすれば、怠惰なのだろうが、不満がなくなるというのは、気持ちを和ませる。おれの意識がそれに馴らされていくのがわかる。

| | コメント (0)

2006年6月18日 (日)

鶴樹の「肉体の変奏」-20-

「いいかね。純粋な理想をいだいて生きる人間が、この世界にどれだけいるのだ。君は知っているかね。いまにも死にそうなやつを必死の努力で助けても、当人はその手当てを当然のごとく思い、次の日からまた自堕落な、その日暮らしをはじめるのだ。生命があるからただ生きる。それだけじゃないか。わたしも若い頃は、人の命は地球より重いというたわごとを漠然と信じていたものだ。だが、人間のどこにそんな高邁な論理を裏づける根拠があるのかね……。

わたしはきみの頭脳をゴリラの肉体に移し替えた。ゴリラの寿命は長くても三十年そこそこだ。きみに肉体を提供したゴリラは、十歳を過ぎていたから、あと十五年くらいの生命だ。……だが、きみの場合、ゴリラだろうが、生田目泰幸という人間だろうが、その生涯に大きな違いがないのじゃないかね? かつて、きみは誰かこれという人の役に立ったことがあったのか? 誰がきみの存在に感謝したかね。これまでも、他人に尽くすチャンスはあったのに、それを、きみは生かせなかった。役立たずだよ、きみは。いや、きみだけではない。みんなそうだ。理想を持たずに自分勝手な、安っぽい夢を語る輩ばかりだ。夢を語ることに苦痛はないが、理想を持つと苦しいものだぞ。きみにはわかるまいがね」

 椿医師の人間嫌いも相当なものだ。人間という性質に、実際以上の期待をもち過ぎていたのだろう。無反省な人々を差別なく治療し、命を救ったことに疑問をもっているらしい。

| | コメント (0)

2006年6月16日 (金)

鶴樹の日記

Pj穂高さんは、防災訓練風景

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2088887/detail

文学作品をからめたPJ記事、中里介山「大菩薩峠」

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2088355/detail

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鶴樹の「肉体の変奏」-19-

 帰りぎわにリポーターの律子が、

「でも、この銀太郎ってほんとうに利口ね。わたし、このゴリラが何か考えているような気がしてならないわ。不気味なくらいだわ」という。

「うん。ふしぎな雰囲気をもっているゴリラだ。こいつは人気が上がるぜ。もっと本格的なスペシャル番組で紹介してもいいな」

「そのときも、わたしをリポーターにつかってね。それまでに、ゴリラをもっと研究しておくわ」

「それは、きみの今後の努力次第だよ」

 プロデューサーは意味ありげに、律子の腰に手をまわした。

「水井プロデューサー。わたしに仕事以外の努力を強要しないで欲しいの。こう見えても、自分の才能に自信を持っていますのよ」律子は、水井という男の手をはらいのけ、足早に車のほうへ行ってしまった。

「おい、おい。勘違いするなよ。ぼくをそんな男だと思っているのか。それにしても、もう少し可愛げがあったほうが、才能も生かせるってもんだぜ」と、男は律子を追っていく。

 長いビデオ撮りに疲れたおれは、床に寝そべって、しばらくうとうとした。

 そのうち、椿医師の独り言が始まった。

「ふん、やつらめ。テレビで銀太郎を売りだすつもりだな。まあ、悪くはあるまい。ただのゴリラだと思っているようだから、ひとつおどろかせてやろうじゃないか。だが、許せないのはあの自警団のやつらだ。藪医者だとぬかしおった。わたしが、若い頃どれだけ理想に燃えた心で、医学に志したか、知るまい。わかるか? 理想だぞ」

 老医師は突然大声をあげ、おれを指差し、燃える眼なざしで、迫った。

 おれはいっぺんに眠気が醒めてしまった。

| | コメント (0)

2006年6月14日 (水)

鶴樹の「肉体の変奏」-18-

猟銃を片にかけた連中の言い分は、ゴリラを放し飼いにせず檻に入れるという約束を、椿博士が破ったというのだ。そのことを抗議しにきたのだった。

「人に危害を加えないよう、よく教育してあるという安全の保証はしたが、檻に入れるだの、鎖につなぐだのという約束は、していないぞ」椿医師は反論した。

「安全なのは、檻に入れるってことだろうが」

 肩から銃を下ろしながら、ハンターのひとりが、そう詰めよった。

「わたしのゴリラは安全だ。危険なのはあんた達じゃないか。自分の面を鏡でみてみろ。銃を撃ちたくてうずうずしている顔だぞ。檻に入れなきゃいけないのは、あんた達だよ」

「なんだと、この藪医者めが、いままで幾人の人間を死なせてきたんだ。いつも夜中に、何かをやっているので、気味が悪いと評判だ。今度はばか力のあるゴリラなど飼いやがって、近所迷惑もたいていにしやがれ」

 そう言われて椿博士は、怒りで全身を震わせはじめた。

「おまえなんぞは、口をきけば人の悪口を言うだけだ。嘘をいう分、言葉を使わない猿より劣る。こんど盲腸にでもなってみろ。口と肛門をつけかえて、尻から物を喰い、口から屁がでるようにしてやるぞ」

 これは興奮のしすぎだ。おれは彼を後ろから掴み上げ、身を引かせた。

 周囲から「おお」という驚きの声があがり、一瞬静かになった。

 するとリポーターの律子が、

「そうよ、椿先生のいう通りだわ。この人たちこそ、銃をふりまわして動物を虐待する張本人なのよ。カメラさん。あの銃を写しておいて」

「なに、あなた達はテレビ局なのか。ちょっとまてよ。おれはここの自警団の連中が猛獣がいるというので、確かめにきただけだ。ゴリラとなると、どうしたらいいかわからん。上司に相談するから、俺を映すのはやめてくれ」顎紐の警官が逃げ腰になった。

 ほかのハンター姿の連中も、動物虐待者ときめつけられて、すっかり意気が上がらなくなった。ぶつぶつ言いながら、帰ってしまった。テレビ局の連中も思わぬハプニングが収録できたと、満足して引き上げていった。

| | コメント (0)

2006年6月12日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-17-

 おれは、あわてて後ろを向き、床に腰をおろした。

これからはゴリラの生態を研究し、ゴリラらしさというのを身につけないと、具合が悪そうだ。とりあえず手元にあるバナナを喰って見せた。うっかり皮をむいて食べてしまったが、ゴリラは果たしてバナナの皮をむくものなのだろうか? さいわい、テレビ局の連中は、あたりまえのように見ているので、かまわないだろう。

「それじゃ、リハーサルだ。椿先生、リポーターが、質問したときは臨機応変に答えてください」

 スタッフのひとりが声を掛けた。

 するとさっきの若い女のレポーターがカメラの前に立った。

「はーい。みなさん。レポーターの畠山律子でーす。きょうの動物家族は、なんとゴリラなんですね。……ここは箱根です。飼い主はお医者さんの椿先生です。話を聞いてみましょう。このゴリラ、名前は?」

「銀太郎です」

「あら、箱根で足柄山の金太郎というのは有名ですが、銀太郎とつけたのは何故?」

「このゴリラは、ほら背中の毛が銀色になっているだろう。これはシルバーバックといって、ゴリラの指導者の資格を持っている印なのだよ」

椿医師は上機嫌で応対している。おれの名が銀太郎だなんて、初めて聞いた。

 そのとき、玄関のあたりで騒がしい気配がしはじめた。

みると帽子に顎紐をかけた警官を先頭にして、ハンターの格好をした男が数人押しかけてきている。

さっき山のなかでおれを追いかけてきた奴らだった。

| | コメント (0)

2006年6月10日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-16-

取材に押しかけてきたTV局のスタッフは、てっきり動物園でやっているようにおれが檻にでも入っていると思ったらしい。椿医師がカメラに向かっている。山野におれを放し飼いにするまでのいきさつを説明していた。

「さる筋よりだな、情報が入ったのだよ……。悪徳な動物輸入業者がゴリラを密輸入したものの、あまりの高値で買手がつかないでいるというのを教えられた。私はゴリラをどこまで人間に近づけられるか、という実験のため、大金をはたいて手にいれたのだ」

「へえ、どこの業者から、いくらで?」

 プロデューサーらしい男がきいた。

 おれの肉体となっているゴリラの入手先については、おれも大いに興味があった。しかし、

「具体的なことは一切言えない。秘密を守るのを前提で買ったのだ。さる業者からさるルートを経て……。としかいえないな」

 その話になると、椿医師の説明はしどろもどろだ。

「なるほど、ゴリラのことだから、肝心なことは、さるになるわけだ。いいじゃないか、我々は詮索をするのが目的ではない。見ろ、この見事なゴリラを。マウンテン・ゴリラと寝食を共にするのは、世界の動物学者の夢だと聞いたことがある。それをペットにしているのだからな。うけるぜ。これは」

「だけど、このゴリラ。妙な気配をしていると思わない? もしかしたら、私達の話を聞いて、内容が理解できているのじゃないの?」

| | コメント (0)

2006年6月 8日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-15-

          6

 林のなかでは雪割草や馬酔木が白い可憐な花を咲かせている。蕗のとうも芽を出しはじめた。

 日の出前の散歩を楽しんでいたおれは、嫌な気配を感じて、周囲を見回した。低い木立の陰に人が隠れて、こちらの様子を窺っている。かすかだがグリース油と鉄のにおいがただよってくる。葉陰から突き出している黒いものはあきらかに銃身である。

 しかも一人ではない。右にも左に誰かが息をこらしている。

 おれは後ずさりをし、威嚇の咆哮をすると身をひるがえして藪のなかに逃げ込んだ。

「逃げたぞ。追え、追え!」

「写真は撮ったか?」

 わめきたてる声を後ろに、おれは茨の雑木林を抜け、山の斜面を走って彼らを撒いてしまった。

 最初からおれを狙っていたのか、猪でも追っていたところに、おれを見つけたのか、わからない。

 いつもやっているように崖の上から椿医師の研究所の屋上におりた。そのとき建物の前にテレビ局の中継車がいるのが見えた。車体にKQTVという文字がある。

 外の階段をつたい部屋に戻ると、ビデオカメラや照明装置を担いだ男達がいて、椿医師をとりかこんでいた。台本を手にした女のリポーターがいた。部屋のあちこちを指差しながら喋りの稽古をしている。おれがドアを開けてぬっと現れたのを見て、ひと騒ぎがおき

た。

 彼らは「動物家族」という番組のシリーズ化のため、珍しい動物をペットにしている椿医師を録画取材していたのだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年6月 7日 (水)

鶴樹の日記

鶴樹が編集支援(発行アシスタントと発行団体活動のアッピール)をしている新聞があって、そこの記事を手がかりに、PJの佐藤さん取材した記事です。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2052249/detail

こういう連携というのは、新しい現象だと思うし、トライアル活動で面白いと思う。

| | コメント (0)

2006年6月 6日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-14-

 椿医師はしきりに独り言をいう。ほとんどおれに語りかけているのだ。おれはそれに返事をできないし、しようともしない。どうしても会話が必要なときは、ワープロをつかう。旧式の大きなキーボードを、箸のような棒をつかってタイピングする方法を博士が用意してくれていた。

 彼はおれの身体の健康診断をするのが、いまのところの日課だ。なんでも、ゴリラは体内寄生虫に弱く、風邪も引きやすいのだという。おれの肉体を分析し、機能を完全化することに夢中である。それが孤独と虚無の恐怖から彼をまもっているようだ。

 しかし、彼の内面では、常に何かの葛藤があるらしかった。机に向かって熱心に記録を取っていたかとおもうと、突然ペンを放りだし「これが何になるのだ」と、ため息をつくことが、しばしばあった。頭を垂れてしばらく、すすり泣くこともある。それから、なにやら呟きながら気をとり直し、研究の記録を続けるのであった。

| | コメント (0)

2006年6月 5日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-13-

 窓の外は雪景色である。部屋のなかは空調機器や、テレビの発散する電子イオンの匂いが常に漂っている。隅にあるオリズルランやサボテンも匂う。椿医師の体臭もわかる。絨毯は化学繊維の臭いを発している。おれは周りにある物ひとつひとつの匂いを嗅ぎ分けて飽きなかった。

 この異常な感覚は本来のおれのものではない。ひらべったい大きな鼻のゴリラのものだ。本来のおれは死んだ。椿医師は地下室に横たわる、以前のおれを見せてくれた。それはもはや生命をもたない頭部の彫像にすぎない。じっさいは、ゴリラの脳が入れられ、首から下は人体人形をつけ、毛布で覆って、戸籍上でのおれの生存を偽装しているらしい。

 椿医院は宮の下温泉の上を通る道路沿いにあった。医院の反対側、道路をへだてた向かいに椿文蔵の私邸兼研究室がある。おれと椿医師はここに住んでいる。鉄筋コンクリートの三階建てのビルだ。屋上に行けば、上からつづいている崖の斜面にすぐ移れる。

 おれは早朝に、雪のなかを散歩した。雑木の山はシダ類や、竹、山芋などが豊富で春になれば、食い物に困らないだろう。身体が食欲の信号を送って、おれに教えてくれた。じっさいに手元の木の葉を手でしごいて口にいれてみた。かなり堅い葉だったが、頑丈な歯はたやすくそれを噛み砕いた。

 力に満ちた太い手足、あたたかく丈夫な黒い毛。おれはひとり野山を跳梁し、ゴリラの肉体の感覚をためした。腕力、脚力、臭覚、触覚。どれをとっても文句はなかった。これで充分だった。完璧な肉体に思えた。

| | コメント (0)

2006年6月 4日 (日)

鶴樹の「肉体の変奏」-12-

          5

 再び意識をとりもどした時、椿医師はまだそこにいた。心配そうな頼りない眼差しだ。彼の顔は白いものがまじった髭でおおわれていた。それが長い時間の経過を物語っていた。

 強い衝撃がおれの全身をかけめぐった。おれは、がばっと身を起こした。が、実際はのっそりとしていたようだ。

「おお、正気にもどったか。意識のしっかりしたとこれで、見てみなさい。きみの前の鏡を……」

 彼の示した姿見には、黒ぐろとした毛に蔽われた一頭のゴリラが映っている。身長が百九十センチ、体重は百五十キロを超えていそうだ。

 おれは、驚いて悲鳴をあげた。しかし、喉から出たのは動物的な低いうなり声だった。 

「落ち着け、相手は鏡だぞ。それが君の姿だとわからないのか?」

何だと……。これがおれの新しい肉体だというのか。おれは驚きの声を上げた。が、喉から発せられたのは、またも低い唸り声だった。話そうとしても、言葉にならない。おれは口元に手をやり、椿医師に示した。

「やむをえんな。ゴリラの顎はしゃべるようには出来ていないのだ」

 そう言って、彼はいままでの経過を話してくれた。

 それによると、あれから椿医師は不調になった人工臓器の機能回復をあきらめ、ただちにゴリラの肉体におれの脳を移植した。それは成功したのだが、まもなくおれは原因不明の錯乱を起こした。一種の拒絶反応だったようだ。

 ゴリラになったおれは研究室を飛び出し、この辺の野山を逃げ歩いたのだという。やがて箱根の山にゴリラが出没するという話が世間に広まった。警察や警備団が出動し、テレビのニュースにもなった。またその逃げっぷりが、西へ行ったと見せて東に行き、北へ向かったと見せて南に向かい、実に頭脳的だというので、マスコミに面白がられたらしい。

 結局、おれは椿医師のもとに帰り、彼の飼育しているゴリラが逃げ出したということで騒ぎはおさまった。

 その間のことを、おれはまったく覚えていない。以後、椿医師はおれの意識の錯乱を治療することに、専念してきたのだという。そして、やっとのことでおれの意識の回復に成功したのだ。このとき、事故以来すでに半年近く経っていた。

| | コメント (1)

2006年6月 1日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-11-

 そこで、椿医師が望んでいたように、おれの手術の詳細については、他人に話さないという約束を由美からとりつけた。そして押し入れにしまってあった現金の全部を分与し、離婚をした。

 整理して残ったのは四億円強であった。すでにバブルがはじけてきていた。おれは、半分を椿医師の研究費に寄付することにした。

 そのころから、人工臓器の調子が悪くなって、おれは幾度か意識を失うようになっていた。血液循環システムに人工血液のカスがたまり、血栓をおこすのだという。

 いよいよ、最期のときが来たらしい。覚悟をきめていると、医師があらたまって、「生田目君。以前に君の妻君から受け取った一億円は、何に使ったと思うね?」ときいてきた。「治療費でしょう」

「それほんの一部だよ。じつは極秘のうちにゴリラを買ったのだ」

「ゴリラって、生きているのを?」

「もちろん。しかもマウンテンゴリラだ。こいつはそこいらの動物園で見られるロウランドゴリラより進化している種類なのだよ」

「それが、何か……?」

「君は肉体が欲しくはないのかね。私はゴリラやチンパンジーを動物実験をしていた時によく考えたものだ。動物の臓器を人間に使えたら……と。だが、いまの君にはもっと飛躍した発想が必要だ。君の頭脳をゴリラの肉体に供給するのだ」

 椿医師は目を輝かせた。すっかり憂欝病から脱けだしているようだ。

「そうなると、おれはどうなるんです?」

 そう言ってから、またおれは気を失ってしまった。

| | コメント (0)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »