鶴樹の「肉体の変奏」-26-
「わたし、むずかしいことは判らない。でも、気になるのよ」
律子は、床を指さして言った。
「見てよ。ここの家の電気コード、すごいタコ足配線だわ」
たしかに、カーペット、ポット、ワープロ、テレビ、ラジカセなどが、コンセントにコンセントを差し継ぎして乱雑にコードが引きまわしてある。
「いい? ここのゴリラは、この継ぎ足しだらけのコンセントを一度も踏み潰さないのよ。ねえ。椿先生ですら、ときどきコードに躓きそうになるのに、ゴリラはまるでその位置を感覚的に知っているようだわ。妙にセンスがあるの。まさか、ゴリラのいた森にタコ足配線があって、それをよける歩き方を経験している訳でもないでしょうに」
「なんだって? きみは変なことを気にするんだな」椿医師は、返答に窮し、だまってしまった。
おれも、そばで聞いていておどろいた。たしかに、由美と生活していたころ、彼女のタコ足配線の癖に、おれは慣らされていたのだった。いままで、おれなりにゴリラの癖を研究し、習得していたつもりだった。しかしそこまで、気がまわるわけがない。
やがて、椿医師がおもむろに口を開いた。
「いや、それはだね。このマウンテン・ゴリラというのは、足の形が人間にいちばん近いのだ。おなじゴリラでも低地に住むローランド・ゴリラはもっと平べったく、未発達な足をしている。類人猿の進化は足から起きているというのが定説だ。マウンテン・ゴリラは、進化がすすんでいる方なのだ。それくらいだから、家の中のコード配列を足の感覚でおぼえるのは、簡単なんだろうよ」
「そうなんですか」律子はあまり納得したようではなかった。が、それ以上追及はしなかった。
しかし、撮影機材を片付けているとき、水井プロデューサーに、彼女は囁いていた。
「椿医師はあんなことを言っていますけど、わたし、これはなにか大変なことなんだという予感がするのよ。でも、それが何なのか今イチ判らない。じれったいわ。なんなのこれの意味するものは?」
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