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2006年6月 5日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-13-

 窓の外は雪景色である。部屋のなかは空調機器や、テレビの発散する電子イオンの匂いが常に漂っている。隅にあるオリズルランやサボテンも匂う。椿医師の体臭もわかる。絨毯は化学繊維の臭いを発している。おれは周りにある物ひとつひとつの匂いを嗅ぎ分けて飽きなかった。

 この異常な感覚は本来のおれのものではない。ひらべったい大きな鼻のゴリラのものだ。本来のおれは死んだ。椿医師は地下室に横たわる、以前のおれを見せてくれた。それはもはや生命をもたない頭部の彫像にすぎない。じっさいは、ゴリラの脳が入れられ、首から下は人体人形をつけ、毛布で覆って、戸籍上でのおれの生存を偽装しているらしい。

 椿医院は宮の下温泉の上を通る道路沿いにあった。医院の反対側、道路をへだてた向かいに椿文蔵の私邸兼研究室がある。おれと椿医師はここに住んでいる。鉄筋コンクリートの三階建てのビルだ。屋上に行けば、上からつづいている崖の斜面にすぐ移れる。

 おれは早朝に、雪のなかを散歩した。雑木の山はシダ類や、竹、山芋などが豊富で春になれば、食い物に困らないだろう。身体が食欲の信号を送って、おれに教えてくれた。じっさいに手元の木の葉を手でしごいて口にいれてみた。かなり堅い葉だったが、頑丈な歯はたやすくそれを噛み砕いた。

 力に満ちた太い手足、あたたかく丈夫な黒い毛。おれはひとり野山を跳梁し、ゴリラの肉体の感覚をためした。腕力、脚力、臭覚、触覚。どれをとっても文句はなかった。これで充分だった。完璧な肉体に思えた。

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