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2006年6月 4日 (日)

鶴樹の「肉体の変奏」-12-

          5

 再び意識をとりもどした時、椿医師はまだそこにいた。心配そうな頼りない眼差しだ。彼の顔は白いものがまじった髭でおおわれていた。それが長い時間の経過を物語っていた。

 強い衝撃がおれの全身をかけめぐった。おれは、がばっと身を起こした。が、実際はのっそりとしていたようだ。

「おお、正気にもどったか。意識のしっかりしたとこれで、見てみなさい。きみの前の鏡を……」

 彼の示した姿見には、黒ぐろとした毛に蔽われた一頭のゴリラが映っている。身長が百九十センチ、体重は百五十キロを超えていそうだ。

 おれは、驚いて悲鳴をあげた。しかし、喉から出たのは動物的な低いうなり声だった。 

「落ち着け、相手は鏡だぞ。それが君の姿だとわからないのか?」

何だと……。これがおれの新しい肉体だというのか。おれは驚きの声を上げた。が、喉から発せられたのは、またも低い唸り声だった。話そうとしても、言葉にならない。おれは口元に手をやり、椿医師に示した。

「やむをえんな。ゴリラの顎はしゃべるようには出来ていないのだ」

 そう言って、彼はいままでの経過を話してくれた。

 それによると、あれから椿医師は不調になった人工臓器の機能回復をあきらめ、ただちにゴリラの肉体におれの脳を移植した。それは成功したのだが、まもなくおれは原因不明の錯乱を起こした。一種の拒絶反応だったようだ。

 ゴリラになったおれは研究室を飛び出し、この辺の野山を逃げ歩いたのだという。やがて箱根の山にゴリラが出没するという話が世間に広まった。警察や警備団が出動し、テレビのニュースにもなった。またその逃げっぷりが、西へ行ったと見せて東に行き、北へ向かったと見せて南に向かい、実に頭脳的だというので、マスコミに面白がられたらしい。

 結局、おれは椿医師のもとに帰り、彼の飼育しているゴリラが逃げ出したということで騒ぎはおさまった。

 その間のことを、おれはまったく覚えていない。以後、椿医師はおれの意識の錯乱を治療することに、専念してきたのだという。そして、やっとのことでおれの意識の回復に成功したのだ。このとき、事故以来すでに半年近く経っていた。

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コメント

こんにちは、体調を崩されたと書かれていましたが、その後いかがでしょうか? ご自愛のほどを。

ところで、「肉体の変奏」、楽しく読ませてもらっています。かつて臓器移植が取り沙汰された頃でしょうか、筒井康隆がしきりに取上げていたのが思い出されます。動物の臓器を移植された人間が、その動物めいた行動を起こすというなんとも無邪気なお話ばかりいくつかあったと記憶していますが、「肉体の変奏」はそのタイトルからも、そんな無邪気さに安んじることのなく、読者をどこか新しい地平に導いてくれるものと期待しています。

投稿: よこい | 2006年6月 5日 (月) 00時38分

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