鶴樹の「肉体の変奏」-8-
「結局のところ君。若いうちはだな、明日こそ明日こそと時間の流れるのを楽しみにして、その日その日を過ごしているが、あるときその明日というのが、何ももたらさなかったことに気づくのだ。人生の意義などというのは、まやかしなのだ。あたかも明日に大いなる希望があるがごとく思い込んで苦しみに耐え、いたずらに死を恐れ、生きることに執着させられているのだ。君だって知っているだろう。
人間は幸福だった時こそは幻のように思えるが、苦しい時のことは生々しく心に残る。
あるいは他人から受けた屈辱は忘れ難いが、恩恵についてはほとんど意識しないで暮らすのだ。だが、それも若いうちはいい。私のように老いてみたまえ。夏の陽光は目をくらまし、冬の風は肺を痛めつける。舌は味覚を捉えそこない、官能の歓びは失われ、苦痛にしかならない。かつて気晴らしであったはずのものが、ただ疲れるだけの空虚な行為に変わるのだ」
語りながらおれを見下ろす椿医師の瞳は、憂いに満ちていた。
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