鶴樹の「肉体の変奏」-5-
おれは怒りと同時にある失望感のようなものに、おそわれた。たとえがふさわしくないかもしれないが、自分の車を他人が勝手にのりまわしているのを、はじめて知ったようなものだ。
だが、正直言って我を見失うほどではなかった。神野という若者が、おれの商売となにか関係があるのではないか? もっとはっきりいえば、ここで下手に立ち回ったらなんらかの損失をまねくのではないか? という思惑が頭をかすめていた。
この若者は同業者のなかでも急成長をしている会社の社長の息子なのである。ついさきごろ、大手デベロッパーの住宅地開発の一部をダミー会社のかわりに買収する話をもってきてくれたのは、この男の部下だった。簡単に儲けることができて、運がいいと思っていたが、それなりに裏があったわけだ。
おれは今後とも機会があれば、取り引きをして欲しいと神野に告げ、その場は引き取ってもらった。
「疲れた。ビールをだしてくれ」とおれは言った。彼女は突然涙をながした。嗚咽しながら、冷蔵庫をあけビールを用意し、これからシャワーを浴びていいかときいた。
「ああ、そうしろ」おれは言った。
由美は、離婚させられて一文無しでほうり出されると思ったのだろう。夕食も口にしなかった。
ベッドのなかで、こんなことになったいきさつを聞いた。同業者の記念パーティで由美を連れて出席したとき、神野は妻に目をつけたものらしい。また、由美も男のあしらいにかなりの自信をもっていたのが、よくなかった。そこにうまくつけこまれる結果になったようだ。
その夜、おれは頭のなかでは由美に指一本ふれずにいたかった。そのことで、彼女を罰してやりたかった。そうすれば由美は朝までまんじりともせず、いまの贅沢な暮らしから追放される恐怖をあじわったに違いない。だが、おれは由美を抱きたいという自分の欲望に勝てなかった。おれがその気配をみせると由美は忠誠心を試された牝犬のように性技をつくしてきた。由美の一時的裏切りは不快であるが、つまるところ一円の損失もないのだ。快楽にひたりながら、おれはそう考えていた。
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