2009年4月18日 (土)

同人誌「R&W」第6号(愛知郡)(1)

【「桟敷を跨ぐ」渡辺勝彦】
 戦後間もない、朝鮮戦争の終わりごろの話。もう時代小説のジャンルになるかも。戦争で成金になった人が芝居小屋を創設し、そこの役者や浪花節の演者と戦前・戦後の官憲の絡みを描く。戦時中に特高警察から俳句誌に発表した句が天皇や国体に背くと言いがかりをつけられ、拘留され転向を誓わせる。官憲の横暴さと、それをトラウマとして戦後までも復讐を考える人々など怨念と恋愛を描く。
 当時の時代の雰囲気がよく出ているのと、芝居小屋の舞台の様子を実況中継のように描いているのが大変面白かった。同時に戦中・戦後のあの暗い世相のなかで、時代に流される官憲のいじましさを再認識させ、いまもその残滓が残っているように思わせるところなど、現代性を持っている。

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2009年4月17日 (金)

同人誌「文芸中部」80号(東海市)(3)

【「ショウジ タロウと石笛(いわぶえ)」堀江光雄】
 直立不動の姿勢で、丸い縁の眼鏡をかけ、跳ね上がった頭髪でモノ哀しい調べの「赤城の子守唄」を唄う東海林太郎の人生の裏面を綴った物語。語りの手法が面白く、古代から伝わる石笛(いわぶえ)を、臨終間もない東海林太郎が手に握って、冥界にはいる東海林太郎と会話をする。そのなかで、満鉄時代からの東海林の生活の裏面が知らされていく。知られざる東海林太郎の人生を知って大変面白く感じた。彼の声が耳元によみがえるような懐かしさを感じ、さらにあの唄は芸術であったのだと思うと同時に、それを受け入れた日本人の感性の鋭さを再認識させられた。

【「音楽を聴く・グバイドゥーリナ『ヴァイオリン協奏曲』」堀井清】
 音楽の演奏者が美人だと好きになるという話から、楊逸の芥川賞受賞作の感想まで、話題は広がるが、たしかに女性の演奏者で優れた人に美人が少なくない。自分もよい女性アーティストに出会うと、胸をときめかすことがある。音楽によって、情緒をかきたてられて美しく見えてしまう、ということもあるのかも知れない。良いアーティスト出会うと、その音楽と人に恋をしてしまうのが聴衆の常ではないだろうか。

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2009年4月16日 (木)

同人誌「岩漿」第2期17号(伊東市)(2)

【「命の限り」日吉睦子】
 交通事故で21歳の息子を亡くした筆者が、その悲しみ耐えて生きてきた。自死の影響で鉄道の遅れに出会うとき、辞めた職場の同僚が自死したことを耳にしたとき、周囲の表向きには、何気なさそうに振舞ってきた自分の本心の悲しみを書く。その体験から人の命の尊さを訴える。10号に発表した息子への追悼の詩も再掲載している。エッセイで短いが、ヒューマンの心の痛みを表現して、読み手の心を打つ。

【「空に映る海の色」木内光夫】
 1年前、事故で亡き人となった父親。社長であったので、彼が築いた会社の後継者と目されている息子を主人公にしたロマンス小説。父親の代に部下であった重役たちの権力争いに巻き込まれながら、海辺の旅館に長逗留している主人公とその土地の女性との恋愛を描く。海の光景の描写に精力を注ぎ、海が書きたくてこの小説を書いたような気配がある。情緒の表現に優れていて、楽しく読める。その他、本誌にコラム風に(み)とした寸編小説が見られるが、やはり細やかな情緒が巧みで同じ作者ものと思われる。

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2009年3月25日 (水)

同人誌「文芸中部」80号(東海市)(2)

 本誌は80号記念として、「掌にのる小説」特集がある。堀江光雄編集責任者は、「あとがき」で、「『掌にのる小説』といっても、それは短い小説に見えて、相当長い屈折が要求される。私はこれを『焦燥小説』と考えている。『そらそら、燃え出している。どうするんだね』と、『掌のうち』が呼び返してくる」と、書いている。

【掌にのる小説「萩の寺」朝岡明美】
 幼いころから境内であそんでいた尼寺がある。その住職さんは、「あんじゅさん」と呼ばれ村人に親しまれたが、老いて養老院でなくなる。その後にきた尼さんは、とんでもないハネっ返りの尼さんで男出入りが絶えず荒れ寺にしてしまう。ついには村人と駆け落ちしてしまう。ところが、それ以後、寺の境内にきちんとした掃き掃除の跡できるようになる。ある日、夜に境内にいってみると、「あんじゅさん」が庭を掃いてから、すっと姿を消すのを見る。短い中に見事に物語りをまとめている。

【掌にのる小説「年金生活」井上武彦】
 かつて直木賞候補になった作品の実績のある井上氏も80歳になる。子供たちが独立し、その様子を観察しながら、小説を書いてきた意味を考える話。プロになったら良かったのか、悪かったのか、という問いかけがある。

 余談になるが、作家・伊藤桂一氏は、現在92歳である。時折、純文学雑誌に書いている。師が80歳くらいの時代に、自分が50歳代で、書くのが疲れたといったら、「まだ、そんな年で、弱音を吐くな」と叱られたものだ。師は、現在も「小説は勉強中」と宣言する。そう言われると、こちらも挑戦しなければと思ってしまう。この作品で、そんなことを思い出した。

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2009年3月24日 (火)

同人誌「なんじゃもんじゃ」春光号(通巻7号)(千葉県)(3)

【エッセイ「真夜中の訪問」小野遥】
 「私」には認知症になった父親が、近くに住んでいる。次第に悪化し、近所の人が気づいて、連絡をしてくるようになる。これからさらに手のかかるようになる事態を予想し、これからの父親の介護の決意を新たにする。

【掌編「不法投棄」杵淵賢二】
 栃木県北部の山間部では、不法投棄に悩まされている。不法投棄の家財道具をみつけ、警察などが捜査をする。廃棄物に持ち主を特定するものが混じっていたため、犯人がわかる。母親と共に暮らしていた男が、母親が病死したため、遺品の処理に困り、捨てたものとわかる。捜査した警官が、その若い男の境遇に同情して、犯罪として立件するのに気がすすまないようなので、語り手の自治会役員もそれに同調し、お説教をして放免することにする。
 新聞・テレビのニュースには悪質な事例だけが報道されるが、このような事情の人も確かにいるにちがいない。警官の対応が、ちょっと変わっていて、そこが創作的なのであろう、と思える。都会では、警官は上部からの扱い件数の増加指令を受けたりしている時期は積極的に事件化し、その反対に、報告書作成の仕事を減らしたい時は、なるべく事件化をしないという事情があるのではないだろうか。
 発行所=〒286-0201千葉県富里市日吉台5-34-2、小川方、「なんじゃもんじゃ」会。

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2009年3月23日 (月)

同人誌「岩漿」第17号(伊東市)(1)

【「流れ花」岩越孝治】
 編集後記の(み)という筆者は、この作品を「心を契る代わりに体で契る。咲けない花は風を呼び込み死んで『咲く』。不透明さは透明なものへの憧れと戸惑いの中から産まれた。愛されたい男の愛を容れずに、手渡す命のポエム『流れ花』」とある。
 死の病に見舞われている「私」は、妻であった千砂が渡瀬信哉という以前の男と心中をした川の岸辺に来て、彼女の残した詩や手記をそこに埋めに来る。
 そこから、詩を書いていた千砂との出会い、結婚生活、彼女のロマンを追求する性格などが、視点の移動を自由に活用して語る。冒頭の説明がしっかりしているので、自由奔放な筆使いなのに統一感のあるロマン精神の表現になっている。千砂は、私と同居してすぐ妊娠がわかったので、私はその子供が、彼女の以前の男、渡瀬の子供と知りつつ、子供を育て、成人させるまでが語られる。
世俗的にみるとリアリティが薄いところがあるが、文体となかに導入された詩作品によって(詩そのものは、平凡ではあるが)ロマン性の追求に説得力をもたせている。

【「穂積忠の周辺」橘史輝】
 穂積忠(1901~1954)という人は、著書「積木くずし」のベストセラーで時代を風靡した俳優・穂積隆信氏の父だそうである。歌人として伊豆地方の著名人だったという。北原白秋を歌の師とし、折口信夫(釈迢空)に学問的な指導を受けた。白秋には若山牧水の縁があり、折口には、柳田国男の縁があることから、当時の日本文化の高峰に同居していた人で、どちらの師にも愛されたようだ。
興味深い史伝である。編集後記の(み)という筆者は「弟子を争う高名な文学者と、その狭間で心の漂白を続ける穂積忠。その孤高と哀歓を怜悧な視線で解析する文学」と解説する。
発行所=〒414-0031伊東市湯田町7-12、リバーサイドヒグチ305、木内方、岩漿文学界事務局。

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豊田一郎個人誌「孤愁」第5号(横浜市)(2)

【「編集後記」豊田一郎】(その1)
 本誌の編集後記には、現在の文芸界への感じ方が述べられています。文中冒頭にもあるように、極論としながらも、文学滅亡論にはひとつの時代の気分を反映しているように感じられます。
 豊田氏は、結論で、この現状把握において、文学活動を続けるとしている。その結論は私と同じだが、現状把握には違いがあるようだ。とにかくここでは、豊田氏の発想を読んでみましょう。『』内が、豊田氏の文で、その合間に、私が感じたことを書き込むスタイルにします。
『極論かもしれない。或いは暴論だと言われるかもしれない。しかし、あえて、書いておきたい。
 文学は既に死滅している。世の中は、或いは人類はもう、文学を必要としていない。だからまともな本が売れなくなってしまっている。つまり、読まれていない。この場合はまともな文学書がと言わなければならなないのであろうが、そのほかの本、例えば、ミステリーやホラーものといった類、或いは、歴史ものは、そこそこ売れている。もっと言うなら、漫画本は花盛りかもしれない。しかし、それは文学書とは言えない。
 文学ばかりではない。哲学もとうに、この世から姿を消している。生きるために、役に立たないものと思われるようになったからであろう。それこそ、何千年にも亘って、人間の生き様を模索してきた学問も潰えた。もちろん、哲学があったために、その営為の中から、今日の人類が存在しているのも否めない。しかし、その結果として、人類は進化し、熟成出来たのであろうか。人類は少しも変わっていない。それを万人が感じ取っているものだから、哲学は何時の間にやら姿を消してしまった。』
 豊田氏の論理は実にわかりやすい。そこで、こうした問いかけに対して、鶴樹はやはり出来るだけわかりやすく対応してみましょう。
 まず、文学書が読まれず、ミステリーや歴史物が読まれるのなら、そこに文学精神を盛り込んで読んでもらえるようにすれば良いと思う。それをできるようにするのが文学修業というものでしょう。そうでなくて、何のための文学研鑽なのでしょうか。また、漫画が読まれるなら、漫画のなかに文学精神を盛り込んではどうでしょう。自分は、文学作品をまんが家に書いてもらうのも、ひとつの方法だと思います。
 例えば、大塚英志氏は、マンガ原作者をしているが、なかなかの理屈をもって行っているようです。読まれる努力をしているのです。時折は、「純文学マンガ」の育成を志向していることもあるようです。
 しかし、大塚氏は雑誌「群像」の02年6月号に「不良債権としての文学」というエッセイを発表しているなかで、そのマンガですら、読者数を減らしている現状を指摘しています。大塚氏は、文学の読者層の減少に対応するものとして、プロとアマが結集したフリーマーケット「文学フリマ」の開催を呼びかけました。文芸同志会はその呼びかけに応じて参加したいきさつがあります。
 その当時から、すでに読者の衰退傾向は起きており、自明のことなのです。それでも敢えて、その分野に活動をしようという流れはすでに、存在しています。「文学フリマ」の来場者アンケートでも複数の文学フリーマーケットに行っている回答者が多いのです。
 文学が売れようが、売れまいかは、文学活動において問題ではないのです。文芸同志会では、文学を生活に取り込むことで、生活を豊かにすれば良いという立場に立ってきました。豊かさに満ちて文学が不振ならそれも良いでしょう。自分達はまだ不幸なのかもしれません。
 哲学はなくなったとありますが、そうでもありません。昨年の「文学フリマ」の「東浩紀のゼロアカ道場」では、若者の評論同人誌が3000冊も売れました。それも東氏のポスト・モダンやらアントニオ・ネグリのマルチチュード論など、なにやら難しい哲学理論を振り回してのことです。詳しくは講談社の「東浩紀のゼロアカ道場~伝説の文学フリマ決戦」を読むといいのでは。字が小さくて、私もまだ読みきっていませんが……。ただ、こうした事例も読者層の減少が招いたことだとは思います。これについては,「詩人回廊」のサイト連載「東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』で読む日本文学の傾向と対策」において、主宰者自身がこれからそれに触れてゆく予定です。(つづく)

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2009年3月22日 (日)

同人誌「なんじゃもんじゃ」春光号(通巻7号)(千葉県)(2)

 小川和彦発行人の編集後記によると、本誌はエッセイの勉強から始まったそうである。エッセイから「創作」への発展を試みる場でもあるらしい。そのため創作・掌編・エッセイという分類にも意味があるようだ。小川氏は「すなわち『エッセイ的な小説』あるいは『小説的なエッセイ』と、ぼくは位置づけている」としている。【「別離」西村きみ子】作品を除くと、少しでも事実から離れたらエッセイとならず、小説に変わるというルールの間隙を感じさせる作品が多い。
【掌編「栗ご飯」大島たか子】
 咲子は婚約者の松原が、中学時代の恩師にあいさつに行きたいというので、ついていく。彼氏の故郷は名古屋から1時間ほどの農村で、行って見るといろいろな農村体験をする。夫となる松原の人間関係をたどりながら、交流をすることで、コミュニケーションを深める。結婚生活への期待と不安の交差した女性の気持がよく出ている。
【エッセイ「海が見えた家」那須信子】
 語り手が4歳ころの父親は船乗りだった。母親に港に連れて行かれては、海を見に行った記憶がある。それから父親は一度陸に上がって飛行機の製造の仕事に移る。その時に戦争が始まり父はまた船にのって出兵する。戦争が終わると父親が帰ってくる。やがて母親が病死し、父はやもめ暮らしを通す。時代の荒波をくぐり抜けた家族の物語。海を見つめることを軸にしているため、短いながら内容の濃い印象を与える。父親の人物像が陰影をもって表現されている。
 発行所=〒286-0201千葉県富里市日吉台5-34-2、小川方、「なんじゃもんじゃ」会。

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 同人誌「文芸中部」80号(東海市)(1)

【「空に落ちる」名和和美】
 田舎町の実家の両親がなくなり、係累のいない女性が主人公。会社勤めをしている。仕事が多忙で、ある時、自分が空に吸い込まれ落ちていくような感覚に襲われ、倒れてしまう。そのため入院となる。その後、虫課長と彼女が称している上司が親切にアフターケアをしてくれる。妻子のある男だが、そうした交流のなかで、男女関係にもなる。
 人間の生きる上での関係にこだわったように読める。故郷や両親との関係の切断、そこでの都会生活で、周囲の風景の中に溶け込もうとする。しかし、空の落とし穴におちてしまうという現象に表現される人間関係の喪失感。そして虫課長とのちょっと風変わりな関係、日常生活とすこし違う人間関係のなかに性的な関係が表現される。孤独な人間の感覚を一種の広場恐怖症的な症状で表現している。課長との関係は恋愛なのか、それとも現代人の通常の人間関係なのか、作家的な工夫の意図がさまざまに読み取れて面白い。

【「なるほど―――。」堀井清】
 これも創作的な工夫に満ちた小説。主人公は2人称の「あなた」である。2人称小説は、フランスの前衛的小説として一部に流行したが、この小説も作者と読者が実験を体験するようなところがあって、手法的な興味を合わせて物語りを楽しめる。物語には、90歳の「あなた」が街を歩き、そこで孫の夫婦の不倫関係のなかに割り込んでゆく事件が挿入されている。ありきたりの老後の生活から離れて、高齢者生活の小説を描こうとする作者の努力は、かなり成果を挙げている。2人称にしたことで、新境地開拓の基礎になるかどうかは疑問ではある。
発行所=〒477-0032東海市加木屋町泡池11-318、三田村方、文芸中部の会。

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2009年3月 9日 (月)

豊田一郎個人誌「孤愁」第5号(横浜市)(1)

【「私は、いま」豊田一郎】
 新聞通信社の記者である「私」が、千葉支局の転勤することになる。それを機に東京で交際している女性に結婚を申し込む。そして、話は女とのベッドでの倦怠感に満ちた絡み合いを描きながら話を進める構図をとっている。
 ジャーナリズムにとって千葉といえば成田空港の三里塚闘争が報道の柱となる。昭和41年の建設計画から国家権力による、在民農家の田畑の強制収奪の認知をめぐって、左翼思想家や極左過激派の抵抗運動の象徴となった。その闘争は、平成21年の現在もまだ終焉していない。その地域は、当時の喧騒とは裏腹な、不気味な静けさが漂い、公安と活動家の暗闘の場としての空気が色濃く澱んでいるようだ。
 主人公は全共闘時代にセクトの一員として昭和46年の1月に反対派農家に泊り込み、地下壕整備などの支援を短期間行い、その後、東京にもどった経歴をもつ。
 そこでの副作用として、農家の娘と外部活動家の性的な関係、女性活動家の農家の男たちからの強姦の噂が飛び交う。
 そうしたなかでの、主人公の地元女性との過去の交流を背景として当時の出来事が語られる。千葉に赴任してその歴史を潜り抜けて、地元の飲み屋の女経営者とホステスとの交流を描く。
 話の性質上、どうしても成田闘争の歴史的経緯を語らなければならないので、その分、人間個人のテーマ追求が甘くなるのは、仕方のないところであろうか。社会的な時代の精神を描く道と個人の内面を描くという難しさが作品にそのまま出ている。
 書き方が解かり易く、すっきりしている分、欠けた部分が明瞭になるという面がある。印象としては、主人公のプチブル的なニヒリズムをもうすこし追及を強調した表現にする余地があったような気がする。ただ、個人的には、成田闘争以後の民衆の雰囲気を書き手が維持しているので、一つの当時の時代背性の表現にはなっていると思う。
【「洪水は何時の日に」豊田一郎】
 これは上記の「私は、いま」の続編である。大手通信社の千葉市局長を勤めた男が、東京勤めに戻る。すると、妻が乳がんになり、その療養に時を過ごすが、やがて亡くなる。主人公は、定年退職後に千葉に舞い戻る。いま成田の町は、闘争の激動時代が過ぎ、地域はアスファルトとコンクリートの整地が進んだために、排水が機能せずに洪水に見舞われる。そこでかつての国家権力への反抗意識による洪水の水はどこに流れ去ったのか、と思わせるところで終わる。
 前作があるので、成田闘争の歴史的な経緯を語らないで済んでいる。その分、主人公の生活意識が良く出ている。ここでも水商売の女性が物語の狂言まわしに登場してくる。大手通信社のサラリーマン生活の一端を描いて、その部分の細部が推察できるのが、自分には面白かった。作品では、あまりやる気のない社員と見られているように描かれているが、設定が淡白にしすぎの感がある。もっと、社内闘争に組み込まれるような人物に仕立てた方が、話が引き立つのではないだろうか。

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