四日市市地域ゆかりの「郷土作家」顕彰事業委員会と伊藤桂一顕彰委員会は、このほど伊藤桂一詩碑建立記念誌「水車」(非売品)を発行した。これは8月23日に、日本芸術院会員で直木賞作家の伊藤桂一氏の詩「水車」を刻んだ詩碑が建立されたことを記念したもの。
この中で伊藤桂一顕彰委員代表の志水雅明氏は『作品「水車」の出典および解説』と題して、その詩作歴を示し、故郷の自然体験による詩魂が、時代小説の作品中に伊藤ワールドを形成していると記している。
詩人・伊藤桂一の詩作の来歴を、次のように記している。
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伊藤桂一自筆年譜によれば1961年(昭和36年)44歳時には次のように記されている。
4月『近代説話』に「黄土の記憶」を発表し第45回芥川賞候補となる。10月『近代説話』に「蛍の河」を発表。12月私家版『竹の思想』を刊行(350部限定版)。通算三十年に及ぶ文学修業の末、生涯恵まれなくてもよい、という覚悟も出来、かつ昨年発病せし妹の容態捗らず、母も痩衰をきわめ、一家の潰滅を予感し、せめて一巻の詩集を挨拶代わりに知友に配布せんと思ったものである。
伊藤は1946年(昭和21年)1月、中国大陸から復員し、母と妹の疎開先である三重郡川島村(現四日市市川島町)の稲垣家に落ち着いた。「精神は虚脱状態だった」が、当時、群生していた周辺の竹林を逍遥しては、詩作に専念するのであった。(中略)
伊藤文学の節目とも言うべき「挨拶代わり」の私家版詩集「竹の思想」はその後、伊藤が「蛍の河」で直木賞を受賞した1962年(昭和37年)は8月に他界した令妹愛子への「悼詩」なども加えて1968年(昭和43年)、『定本・竹の思想』(南北社)となって広く読まれることになった。さらに後には日本現代詩文庫シリーズの『伊藤桂一詩集』(土曜美術社、1983年)となって公刊され、名詩集の一冊と称された。
ところで、『定本・竹の思想』の前半には「竹十章」「竹」「竹の歌」「竹のある風景」や「風景」「椿」「鳥」「水車」「鳶の言葉」「水ぐるま」など、豊かであった川島地域の竹林など自然の風物、特に<竹>から感得した、伊藤自身の人生観・死生観・社会観・宗教観(詩人安西均の評)がすがすがしく形象化されて並んでいる。
竹の群生する故郷寺方や疎開先川島は疲労困憊した心身を慰撫し、蘇生させてくれるに充分な母的存在であったのである。青年期から育んできた詩魂はここで一気に、良質にして沈潜した叙情性を獲得したのであった。
この自然体験は短編「鈴鹿」(「午前」1948年)、「帰郷」(「水の景色」構想社、1984年)や、「日帰りの旅」(「群像」1992年5月号)・「祭日」(「文学界」1997年1月号)などに度々、形をかえて描かれることになる。(後略)
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本文の末尾には、「水車」と同じ素材で伊藤桂一氏の詩「水ぐるま」という作品が紹介されている。
伊藤桂一氏は、一般に直木賞作家として世間で紹介されるのであるが、直木賞受賞作の「蛍の河」は短編であり、内容も詩情に満ちたもので、本来は芥川賞の方がぴったりしていたように思える。この夏、92歳になったが、詩の世界での活動に対する情熱は衰えていないようだ。
《関連情報》
伊藤桂一詩碑建立記念誌「水車」を発行(詩人回廊)
「作家・伊藤さんの望郷の詩が石碑に 出身地四日市で除幕式」
自身の戦場体験を基にした多くの小説を手がける四日市市出身の作家・伊藤桂一さん(92)の詩碑が、同市寺方町の大日寺に完成し、伊藤さんも出席して23日、除幕式があった。
伊藤さんは、1917(大正6)年に三重県神前村(現四日市市寺方町)の同寺で、住職の子として生まれた。38年に召集され、復員後の46年から本格的な文筆活動を始めた。62年には自身の戦争体験を描いた「蛍の河」で直木賞を受賞、小説のほか、詩や短歌も多数残している。
詩碑は、郷土の文学者をたたえようと、市内の文芸評論家ら10人が顕彰委員会を設立。東京に住む伊藤さんと詩碑建立について話し合いを進め、伊藤さんが生家近くにあった水車を懐かしんで詠んだ望郷の詩「水車(みずぐるま)」を碑に刻んだ。
式には、伊藤さん夫妻のほか、東京や名古屋、九州などから関係者約80人が参加。伊藤さんが、幅1・6メートル、高さ0・9メートルの碑にかかった白い幕を引くと、濃い緑色の石に直筆の詩が浮かび上がった。
伊藤さんは「こんな立派なものになるとは夢にも思わなかった。皆さんの気持ちを心に留め、それに応える努力をしたい」と語った。(土屋晴康)(中日新聞 09年8月24日)
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